4月26日・今日なんの日?

河鍋暁斎の亡くなった日

4月26日は、明治22年(1889)に浮世絵師・絵師の河鍋暁斎が亡くなった日です。

河鍋暁斎(Wikipediaより20220424ダウンロード)の画像。
【河鍋暁斎(Wikipediaより)】

暁斎は、天保2年(1831)4月7日に下総国古河、現在の茨城県古河市で生まれました。

姓は甲斐から河鍋、幼名は周三郎で、号は暁斎のほかにも惺々狂斎・画鬼・畑狂者、酒乱斎、雷酔、猩々庵、如空道人、周磨、惺々など、数多くの雅号を用います。

2歳の時に父の記右衛門が江戸へ出て定火消同心甲斐氏の跡を継いだため、父の暮らす江戸へ出ました。

天保4年(1833)、7歳で歌川国芳に入門して浮世絵を学ぶものの、父が国芳の素行などを心配して2年ほどで辞めさせています。

天保11年(1840)狩野派前川洞和愛徳に入門しますが、洞和が病気になったために、翌年に洞和の師で駿河台狩野派の洞白陳信に入門して狩野派の画法を習いました。

嘉永2年(1849)には19歳で修業を終えて、師の洞白陳信から洞郁陳之の号を与えられますが、嘉永5年(1852)に離縁。

田村(『能画圖式 乾』暁斎、蓬枢閣 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【田村『能画圖式 乾』暁斎(蓬枢閣)】
『新版 大黒天福引之図』(三枚組の内中央)(惺々暁斎(武川卯之吉、1887)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『新版 大黒天福引之図』(三枚組の内中央)惺々暁斎(武川卯之吉、1887)】

河鍋暁斎の画業

安政4年(1857)には結婚して画家として独立、本郷大根畑に住むともに、父の希望で「河鍋」姓を継ぎました。

安政5年(1858)ころから狂画(当時の社会を誹謗した狂画や風刺画)を描きはじめ、狂斎を名乗ります。

元治元年(1864)浮世絵の大家・三代歌川豊国に認められて数々の錦絵を合作しますが、この前後には作品が次々と評判となり、画名が大いに上がったのでした。

慶応2年(1866)本郷の自宅が類焼、翌年から湯島に住むようになります。

明治3年(1870)には書画会で酒に酔よって描いた戯画が貴顕を愚弄するものとみなされて捕らえられ、投獄されます。

翌明治4年(1871)笞五十の刑で放免されると、号を暁斎と改めました。

河鍋(惺々)暁斎(明治15年 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【河鍋(惺々)暁斎作の禅画、明治15年】
『暁斎百鬼画談』〔部分〕(河鍋暁斎(岩本俊、明治22年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【『暁斎百鬼画談』〔部分〕河鍋暁斎(岩本俊、明治22年)】

明治6年(1873)ウィーン万博、次いで明治9年(1876)フィラデルフィア万博に出品。

明治14年(1881)の第2回内国勧業博覧会出品の『枯木寒鴉図』が日本画の最高賞である妙技二等賞牌を受賞して大いに評判となります。

その後も国内外の展覧会に出品、海外にも紹介されて画名は不動のものになったのです。

明治22年(1889)4月26日に、家族や弟子たち、コンドル、鹿嶋清兵衛、石川光明らが見守るなか、胃がんのため59歳で没しました。

暁斎の画風

暁斎は、狩野派をもとに、浮世絵を加味した独創的な画風を創出しました。

機知や諧謔に富んだ着想を、鋭い写実力と卓抜した筆技を生かして自由自在に描き、人びとから賛嘆の声を一身に集めています。

河鍋暁斎(『明治名人伝 初編』岡大次郎 編(小林鉄次郎、明治15年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【襖に妖怪の絵を描く河鍋暁斎『明治名人伝 初編』岡大次郎 編(小林鉄次郎、明治15年)】

いっぽう、奇行・奇談に富み、酒豪としても有名です。

好奇心旺盛で画に夢中な暁斎の姿が垣間見える逸話をいくつか紹介しましょう。

暁斎9歳の天保10年(1839)5月、梅雨による出水のときに、神田川で生首を拾った暁斎は、そのまま生首を写生、そのあと観音経で首を包んで再び流したといいます。

また、暁斎16歳の弘化3年(1846)1月15日、小石川片町で火事が発生、炎上する火消屋敷の様子をひたすら写生し続けたといいます。

同様に、暁斎38歳の慶応4年(1868)5月、新政府軍と彰義隊が戦った上野戦争の翌日には戦場に赴いて写生を行いました。

ちなみに、この画への執念は弟子の小林清親にも受け継がれて、大火のなかで自宅が類焼するのも気にせず清親は写生を行っています。

小林清親(Wikipediaより20220424ダウンロード)の画像。
【小林清親(Wikipediaより)】

ドイツ人医師のベルツは、暁斎を「日本最大の画家」と称したように、天才的画業は他に類を見ないものといえるでしょう。

その作品は広く海外でも紹介されて、日本美術が世界に評価されるきっかけともなりました。

またいっぽうで、暁斎は英国人建築家コンドル、小林清親など数多くの門人を育てています。

ジョサイア・コンドル(『建築学会五十年略史』建築学会 編集・発行、1936 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【ジョサイア・コンドル 『建築学会五十年略史』より】
ニコライ会堂(『東京百建築』黒田鵬心 編(建築画報社、大正4年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【コンドルの代表作・ニコライ会堂『東京百建築』より】

暁斎の時代は明治維新によって、それまで幕府や大藩からの支援で暮らしていた絵師が、パトロンを失うことで受け継いだ技術も失われる危機でもあったのです。

このような時代に、多くの更新を育てて日本の絵画技術を後世に伝えた点でも、暁斎は大きな役割を果たしているのです。

(この文章は、『河鍋暁斎絵日記』河鍋暁斎記念美術館編(平凡社、2021)、『河鍋暁斎 生涯と作品』狩野博幸(東京美術、2013)および『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(4月25日

明日(4月27日

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