4月27日・今日なんの日?

前島密が亡くなった日

4月27日は、大正8年(1919)に「郵便の父」前島密が亡くなった日です。

そこで、前島密の生涯と業績を振り返ってみましょう。

天保6年(1835)1月7日に越後国頸城郡下池辺村、現在の新潟県上越市の豪農・上野家の二男として生まれました。

父は助右衛門、母はてい、幼名は上野房五郎です。

前島密(出典:近代日本人の肖像)
【青年期の前島密(出典:近代日本人の肖像)】

苦学生時代

弘化4年(1847)、13歳でオランダ医学習得のために江戸に出て、漢学・蘭学を学びます。

江戸では筆耕で費用を工面するなど苦学するなかで、嘉永6年(1853)にペリー来航すると、黒船を見に出かけました。

この経験から国防の策をたてようと、安政元年(1854)から九州・四国・関西を周遊して砲台や港湾などを実地見聞したあと、西洋砲術を学びます。

密23歳の安政4年(1857)、幕府の海軍操練所の見習い生となり、航海術・測量法などを修得したあと、箱館開成所に入って日本を周航、箱館や長崎でさらに学びました。

前島密(出典:近代日本人の肖像)
【幕末の前島密(出典:近代日本人の肖像)】

前島家を継ぐ

慶応元年(1863)江戸に戻ると、翌慶応2年(1866)幕臣の前島家錠次郎の家を継ぐとともに結婚して牛込赤城下町に居をかまえます。

また、この年から幕府に仕え、神戸開港事務などに従事していましたが、大政奉還、鳥羽伏見の戦いが起こると、新政府の東征軍応接のために東海道に出張しました。

そしてその最中の慶応4年(1868)3月、大久保利通に「江戸遷都」を献言したのです。

近代郵便制度の設立

明治2年(1869)明治維新後は新政府の民部省に出仕すると、駅逓権正に任じられて郵便操業を建議しました。

というのも、近代郵便制度が整備されていることは、先進国の証の一つだったのです。

そこで、イギリス留学を命じられて郵便制度の調査を行い、翌明治4年(1871)8月に帰国。

イギリス出張から帰ると明治4年(1871)初代駅逓頭に就任(~1873)して、近代郵便制度確立の大仕事にあたることになります。

8月末に江戸時代のシステム・伝馬所と助郷を廃止、郵便切手の発行、郵便ポストの設置、近代郵便制度を東海道―大阪間で開始するなど、矢継ぎ早に新制度を導入しました。

明治4年はじめて開設された郵便役所(『幕末明治大正回顧八十年史』第5輯、東洋文化協会-編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【明治4年はじめて開設された郵便役所(『幕末明治大正回顧八十年史』より)のちの日本橋郵便局で江戸の中心部・日本橋近くの四日市にありました。魚市場の施設をそのまま転用しています。】
郵便創業時切手四種(『大日本帝国郵便切手模造略史』明治29年、国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【郵便創業時切手四種(『大日本帝国郵便切手模造略史』より)】

またこの年の9月12日には、密が出仕直後に健策していた鉄道が開通、私生活でも深川清住町に転居しています。

さらに、明治6年(1873)4月には国営で全国均一料金の「郵便」制度を実施したほか、翌明治8年(1875)にも窓口機関を郵便局に改称、郵便為替の創業、郵便貯金の創設と重要事項が続いたのです。

明治10年(1877)には西南戦争が勃発したため、警視庁で巡査募集にあたったり、内国勧業博覧会審査官長を務めたりしています。

また日本が国際社会に進出するうえで欠かせない郵便の国際化にも着手しました。

具体的には、明治6年(1873)8月に日米郵便交換条約調印、翌明治8年(1875)には外国郵便開業、そして明治10年(1877)6月1日に万国郵便連合への加盟を果たしたのです。

こうした取り組みの結果、明治12年(1880)には英仏の在日郵便局が廃止されて郵便自主権を回復し、郵便制度のうえでは列強と対等になりました。

さらに明治15年(1882)郵便条例が公布されて、ついに近代郵便制度が確立したのです。

創業当時の郵便掛函及郵便夫(『幕末明治大正回顧八十年史』第5輯、東洋文化協会 編集・発行、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【創業当時の郵便掛函及郵便夫(『幕末明治大正回顧八十年史』より)創業当時は郵便制度を理解する人はほぼいない状態で、ポストをトイレと勘違いしる者もいたといいます。】
「東京開化三十六景 四日市郵便局」(広重(佐藤又兵衛、明治時代前期)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「東京開化三十六景 四日市郵便局」広重、先ほどの魚市場転用建物から建て替えられた四日市郵便局(のちの日本橋郵便局)。当時最先端施設だった郵便局は、観光名所でした。】

また、明治5年(1873)『郵政報知新聞』を創刊するなど、初期の新聞事業育成にも貢献しました。

また、明治11年(1878)電信開業にも携わり、地租改正事業にも尽力、三菱会社を助成して外国航路開設への道を開くなどして海運の振興にも努めています。

民間時代

獅子奮迅の働きをみせる密でしたが、明治14年(1881)の政変で薩長勢に敗れた大隈重信が下野すると、これに巻き込まれる形で下野し、翌明治15年(1882)立憲改進党の結党に参加します。

大隈重信(出典:近代日本人の肖像)
【大隈重信(出典:近代日本人の肖像)】

いっぽうで、同年10月に東京専門学校(現在の早稲田大学)創立に参加、明治19年(1886)には校長に就任して学校経営を軌道に乗せました。

さらに、同年5月に関西鉄道社長に就任し、経営者として活躍します。

官界復帰

明治21年(1888)に官界に復帰して逓信次官に就任、電話事業の開設にあたりました。

その後、明治24年(1891)逓信次官を辞任して、日本海員被済会副会長、東京馬車鉄道株式会社監査役、北越鉄道株式会社社長、東洋汽船株式会社監査役などを歴任し、鉄道・海運事業にも貢献しました。

密68歳の明治35年(1903)男爵に叙されて、明治37年(1904)貴族院議員に当選(~1910)もなっています。

いっぽう、密は早くから国字改良論を唱え、漢字廃止を主張したことでも知られていましたが、明治33年(1901)文部省国語調査委員長、国語調査委員長を歴任しました。

前島密(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【官僚時代の前島密(出典:近代日本人の肖像)】

密76歳の明治43年(1910)にはほとんどの役職から退いて、翌年神奈川県三浦郡西浦村芦名に隠居、大正8年(1919)4月27日に85歳で芦名の自宅において死去しました。

前島密の業績

前島密の最大の業績は、なんといっても近代郵便制度の確立にあり、そのことから「郵便の父」と呼ばれています。

ほかにも、東京奠都の献言は広く知られるところですし、海運・鉄道・教育など、極めて多岐にわたる業績は見逃せません。

郵便制度発足から約150年を経た今日、IT革命によって通信環境は激変し、前島密が作り上げた郵便や電話事業は大きく様変わりしつつあります。

しかし、教育をはじめとして密が築いた社会の基盤となって、今もなお我々を支えてくれているのです。

(この文章は、『前島密』人物叢書、山口修(吉川弘文館、1990)、『前島密自叙伝』前島密(日本図書センター、1997)を参考に執筆しました。)

きのう(4月26日

明日(4月28日

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