5月11日・今日なんの日?

ノモンハン事件の起こった日

5月11日は、昭和14年(1939)ノモンハン事件が勃発した日です。

ノモンハン事件は、日本軍とソ連軍に起こった大規模な武力衝突ですが、この事件の影響が、第2次大戦はもちろん、現代にいたるまで残っています。

そこで事件の概要を振り返りつつ、事件の影響についてみていきましょう。

ノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士(Wikipediaより20220506ダウンロード)の画像。
【ノモンハンの広大な平原を進軍する日本陸軍第23師団の兵士(Wikipediaより)】

事件への道のり

ノモンハン事件は、ソ連(ロシア)ではハルハ川事件、モンゴルではハルハ川戦争とよばれています。

満州国とモンゴル人民共和国は、ハルハ川とノモンハン村付近は国境が明確に協定されていないことから、国境をめぐって係争中でした。

これに対して昭和14年(1939)関東軍は「満ソ国境紛争処理要綱」を定めて、国境紛争ではソ連軍を徹底邸に叩くよう方針を示します。

そうした中、たまたまこの年の5月11日にノモンハン付近の係争地でモンゴル軍と満州国軍が軍事衝突を起こしたのです。

辻政信(Wikipediaより20220506ダウンロード)の画像。
【辻政信(Wikipediaより) ノモンハン事件では、関東軍作戦参謀として実質的に日本軍を指揮しました。】

日本軍の攻勢とソ連の決意

衝突の一報を受けると、ハイラルに駐留していた第23師団が要綱に従って部隊を出動させて、モンゴル軍を撃退しました。

じつはこの時、日本では、大本営は日中戦争中であることから不拡大方針を決め、政府も外交的解決を目指します。

いっぽう、ソ連軍は参戦を決定し、モンゴル軍とともに兵力を増強して反撃に転じる方針を立てました。

ソ連は6月6日にジューコフを現地の総司令官に任命するとともに、大量の戦車と重火器・航空機を持つ3個師団と6個旅団基幹からなる大兵力の投入を決定したのです。

ゲオルギー・ジューコフ(Wikipediaより20220506ダウンロード)の画像。
【ゲオルギー・ジューコフ(Wikipediaより) ジューコフはノモンハンでの勝利の後、対独戦を勝利に導き大元帥の称号を贈られました。】

ソ連軍の反撃

いっぽう関東軍司令部は、大本営と政府の方針を無視してソ連軍撃退の強硬方針を定めます。

6月27日には航空部隊がモンゴル・トムスクの基地を爆撃するとともに、第1戦車大隊と第7師団の一部を増援したうえで、7月2日には第23師団が攻撃を開始しました。

しかし、日本軍はソ連軍の優勢な火力と戦車による反撃を受けて、苦境に陥ります。

圧倒的に優勢なソ連軍の戦車と重火器によって、日本軍は多大な犠牲を出したにもかかわらず、撤退すらできない状況に追い込まれたのです。

ついに8月に入ると、ソ連軍が本格的に攻撃を開始して、日本軍が防御する展開へと変わります。

擱座したソ連戦車の前を匍匐前進する日本兵(Wikipediaより20220506ダウンロード)の画像。
【擱座したソ連戦車の前を匍匐前進する日本兵(Wikipediaより)】

8月20日には、日本軍の予測をはるかに超える規模でソ連・モンゴル軍が大攻勢に転じました。

日本軍は圧倒的戦力差により各地で分断包囲されて全滅、ついにモンゴルが主張する国境線の外に撃退されたのです。

国際情勢の急変

ところがこうした中、8月23日に独ソ不可侵条約が成立し、この事態を予測できなかった平沼内閣が総辞職に追い込まれます。

平沼騏一郎(内閣府ホームページより)の画像。
【平沼騏一郎(内閣府ホームページより)】

さらに、9月1日にはドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発したのです。

それでも関東軍は総攻撃を計画し、第7師団の主力に加えて、さらに3個師団を投入する準備に入りました。

いっぽう、世界情勢の急変に対応するため、9月3日に大本営は関東軍に対して作戦中止を命じるとともに、日本政府は9日にはソ連政府に停戦を申し入れ、9月16日に停戦が成立したのです。

事件後

こうしてソ連は東方の安全を確保したことで、9月17日にポーランドに侵攻し、ドイツとともにポーランドの分割占領を行いました。

また、建国まもないモンゴル人民共和国も、この戦争での勝利によって国の基礎を固めることに成功します。

チョイバルサン(Wikipediaより20220506ダウンロード)の画像。
【チョイバルサン(Wikipediaより) ノモンハンでの勝利により、モンゴル伊人民共和国が広く周知されたうえ、自身の独裁体制を確立しました。】

そして事件の結果、ノモンハン付近の国境は、モンゴル側の主張する国境で画定しました。

いっぽうの日本側は、ノモンハン事件で一万人以上の死者を出す甚大な被害を出したものの、得るものはなにもなかったのです。

事件の責任者として陸軍の上層部で左遷人事が実施されたものの、責任の所在や事件の真相究明と分析はほとんど行われませんでした。

このため、ノモンハンでいち早く戦車や重火器・航空機を大量に投入する近代戦を体験したのにもかかわらず、その教訓が全く生かされないまま太平洋戦争へと突き進むことになったのです。

日本軍トラック部隊(『草原の肉弾・ノモンハン事件全貌記』樋口紅陽(同文館出版社、1942)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【日本軍トラック部隊(『草原の肉弾・ノモンハン事件全貌記』より)】

事件の影響

実はこのノモンハン事件、トムスク爆撃などは華々しく報道されましたが、軍が新聞各社に報道の自粛を要請しましたため、敗北という事実は隠蔽され、捻じ曲げて勝利したかのように国民に知らされたのです。

さらに、事件に対して軍上層部に対する左遷人事が行われましたが、それは厳しいものではなく、責任の所在をあいまいにしたものでした。

いっぽうでは前線の指揮官には自決するものも多く、さらに多くの兵が戦地で命を落としました。

このように、失敗を認めず事実を捻じ曲げたうえ、その責任をすべて部下へとしわ寄せする風潮が陸軍に蔓延した結果、国を破滅に導くことになったのは、みなさんもご存じでしょう。

しかし、改めてみてみると、このような風潮は、時代を越えて現在の日本にも受け継がれているように思えてなりません。

ノモンハン事件の教訓は、現在日本に対する重大な警告でもあるのです。

日満共同防衛の監視哨(『草原の肉弾・ノモンハン事件全貌記』樋口紅陽(同文館出版社、1942)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【日満共同防衛の監視哨(『草原の肉弾・ノモンハン事件全貌記』より)】

(この文章は、『史料が語るノモンハン敗戦の真実』阿羅健一(勉誠出版、2019)、『ノモンハン 責任なき戦い』講談社現代新書2538、田中雄一(講談社、2019)および『国史大辞典』『日本史大事典』関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月10日

明日(5月12日

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