息苦しい社会となった転換点・未解決の大逆事件

近代日本の転換点

明治維新から日露戦争と近代化をひた走ってきた日本は、どこから軍国主義という破滅の道へと向かったのでしょうか?

その転換点の一つとなったのが大逆事件(幸徳事件)ですが、じつは未だに未解決というから驚かざるを得ません。

そこで、大逆事件の経過をたどりながら、現在へのメッセージを探っていきましょう。

大逆事件(幸徳事件)とは

大逆事件とは、明治44年(1911)1月24日に、明治天皇の暗殺を計画したとして、旧刑法第七三条「大逆罪」を適用して、幸徳秋水ら12名を死刑に、坂本清馬ら12名を無期懲役に、さらに2名を「爆発物取締罰則違反」で懲役刑とした事件です。

事件の「主人公」幸徳秋水の名をとって、幸徳事件とも呼んでいます。

事件の内容

じつはこの事件、明治政府が本来は関係のない三つの「事件」を結びつけて「大逆事件」という一大陰謀事件を作り上げて処罰したものです。

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【菅野スガ(Wikipediaより20220224ダウンロード)】

この三つの「事件」のはじめは、明治43年(1910)5月25日、宮下太吉、菅野スガ、新村忠雄、古河力作の四人が天皇を暗殺するための爆弾製造を企てたとして長野県で拘引されました。

これがいわゆる明科事件で、大逆事件の発端となります。

二つ目は、明治42年(1909)5月に内山愚童が放言した「皇太子をやっつける」という「革命談」を聞いた武田久平、三浦安太郎、岡林寅松、小松丑治が皇太子暗殺を計画したとして拘引されました。

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【大石誠之助(Wikipediaより20220224ダウンロード)】

三つ目は、明治41年(1908)11月に誠之助が幸徳秋水のもとを訪れたことを、「爆発物と兇器とをもって暴力革命を企て、大逆をおかすべく」幸徳と大石のほか、森近運平、松尾卯一太が謀議したとするものでした。

この「計画」を、大石が帰路の大阪で話したことで、武田と三浦、岡本頴一郎が、同様に新宮で成石平四郎、高木顕明、峰尾節堂、崎久保誓一が拘引されます。

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【高木顕明(Wikipediaより20220224ダウンロード)】

さらに、松尾が熊本に帰郷して「計画」を話したとして、新美卯一郎、佐々木道元、飛松弥太郎も検挙されました。

そのほか、ほとんど言いがかりに近い理由で、奥宮健之、成石勘三郎、新田融、新村善兵衛、坂本清馬も検挙されたのです。

大逆事件の背景

明科事件こそ稚拙とはいえ実態があったのに対して、あとの二つは全くの事実無根で、政府により捏造された事件であったというのですから驚くほかありません。

さらに天皇暗殺計画の「事実」が明らかになると、あっという間に捜査は全国に波及して、事件とは何の関係もない数千名もの社会主義者や無政府主義者、さらにはその同調者や同情者も検挙されて徹底的な調査を受けたのです。

じつはこの事件、社会主義の台頭を脅威と感じた元老・山県有朋が、松室至検事総長や平沼騏一郎大審院次席検事などに「指示」してでっち上げたものでした。

山県らは社会主義者、共産主義者、無政府主義者などをひとまとめにして「主義者」と呼び、明科事件を機に、これら「主義者」の一掃をはかったのです。

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【山県有朋(首相官邸ホームページより)】

判決

事件の取り調べはたくみな誘導尋問や恐喝、拷問によって政府の描いた「明治天皇殺害計画」に結びつけられて、検事聴取書と予審調書に仕立てられていきました。

これをもとに、明治43年(1910)11月1日には幸徳秋水ら26名を被告に仕立て上げた予審意見書を大審院に提出し、11月9日に公判が決定されます。

12月1日に公判が開始されると、12月29日には最終弁論が終了するまで、大審院は一人の証人喚問も許すことなく、完全に非公開で裁判を行うというものでした。

翌明治44年(1911)1月18日に言い渡された判決は、24名を大逆罪で全員死刑、2名を有期懲役という全員有罪とされました。

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【枢密院議長 男爵-平沼騏一郎(『輝く憲政』自由通信社編(昭和12年、自由通信社)国立国会図書館デジタルコレクション)より) 平沼は、事件の捜査から検事聴取書と予審調書、判決まで大きくかかわりました。】

刑の執行

判決の出た翌日の19日には、「天皇の恩赦」で12名が死刑から無期懲役に減刑します。

いっぽう、はやくも24日には幸徳や大石ら11名に死刑が執行され、翌25日には菅野にも死刑が執行されたのです。

判決言い渡しからわずか1週間で処刑を執行するという、当時としてもあり得ないすばやい刑の執行は、やはり政府が反発を恐れて間髪入れず強行したのでしょう。

また、減刑された12名も、5名が獄中死する苛酷さで、最後となった坂本清馬がようやく出獄できたのは、昭和9年(1934)11月のことでした。

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【荒畑寒村(出典:近代日本人の肖像)荒畑寒村や堺利彦は赤旗事件で拘束中のため大逆事件から逃れ、「冬の時代」を支えていくとこになります。】

時代閉塞

この事件によって、社会主義運動は大きな打撃を受けて、運動が停滞する「冬の時代」を迎え、さらに文学界や言論界など、広範囲にわたって強い衝撃をうけました。

石川啄木は事件の公判記録を入手して研究、「時代閉塞の状況」などを執筆しています。

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【石川啄木(Wikipediaより20210321ダウンロード)】

木下杢太郎、与謝野寛、佐藤春夫、沖野岩三郎、河上丈太郎、森戸辰男など、多くの知識人たちが事件への抗議や疑問を示したのです。

いっぽうで永井荷風は、この事件以来、自分の芸術の品位を江戸戯作者にまで引き下げると記しています。

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【永井荷風(出典:近代日本人の肖像)】

さらに戦後、新資料の発見により、大逆事件における政府のでっち上げが明らかになると、被告人たちの名誉回復を目指して再審請求が起こされました。

これに関して最高裁は、昭和42年(1967)に、大逆罪が戦後廃止されたうえに、事件が特殊な事情で発生したので現在の法制度では判断できないとして再審請求を実質的にできないとする判断を下しています。

つまり、未だに被告たちの名誉は回復されておらず、事件はまだ終わっていないのです。

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【幸徳秋水(Wikipediaより20220224ダウンロード)】

(この文章では、敬称を略させていただきました。また、『大逆事件と知識人 ―無罪の構図』中村文雄(論創社、2009.4.30)、『大逆事件と大石誠之助 ―熊野100年の目覚め―』熊野新聞社 編(現代書館、2011.1.24)、『明治流星雨』坊ちゃんの時代第四部、関川夏央・谷口ジロー(双葉社、1998.7.24)、『大逆事件 ―死と生の群像』田中伸尚(岩波書店、2018.2.1)および『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しています。)

きのう(5月24日

明日(5月26日

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