5月9日・今日なんの日?

5月9日は、明治9年(1876)に明治天皇皇后の行幸啓を仰いで上野公園開園式が行われた日です。

そこで、上野公園が誕生するまでの道のりを振り返ってみましょう。

上野公園

上野公園は、武蔵野台地の東南端に位置しています。

この上野山と呼ばれる台地と、そのふもとに広がる不忍池周辺は、徳川との縁が深い寛永寺の境内でした。

「名所江戸百景 上野清水堂 不忍ノ池」(広重(魚栄、安政3年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「名所江戸百景 上野清水堂 不忍ノ池」広重 上野の山は江戸を代表する桜の名所、江戸っ子の憩いの場でした。】

これが、明治維新の際に起こった彰義隊の戦い(上野戦争)のために多くの同党が焼失し、境内への立ち入りは禁止されていたのです。

維新後は境内が大蔵省の管理する官有地となりましたが、明治元年(1868)12月、東京府に移管されて立ち入り禁止を解き、一般人が遊覧できるようにしていたのです。

文部省の要請

いっぽう、旧幕府の研究・教育機関を引き継いだ文部省管轄の大学は、環境が良い上野山に目を付けました。

上野山を大学東校、のちの東大医学部の用地として引き渡しを求めると、明治3年(1870)5月に中金堂跡を中心とする一帯が大学東校要地に決定します。

ボードワン(Wikipediaより20220504ダウンロード)の画像。
【ボードワン(Wikipediaより) オランダ陸軍一等軍医で、大阪病院で教師をしていました。この時、大学東校で講義を行っていて、石黒忠悳らの案内で上野山を散策していました。】

さっそく大学病院の基礎工事がはじまりましたが、この状況をみたオランダ陸軍軍医のボードワンは、上野山は公園にすべきとしてオランダ公使館を通じて政府に申し入れたのです。

ところが、文部省はあきらめるどころか、逆に陸軍要地となっていた本坊跡(現在の東京国立博物館の敷地)を入手し、上野山全体を文部省要地にまとめる要求をしたのです。

東京五公園の開園

こうした中、明治6年(1873)1月15日、公園設置に関する太政官布達が出されます。

その内容は、大都市の景勝地や名所で、寺社境内や公共用地などがあれば公園にするので府県は願い出るように、というものでした。

そこで東京府は、1月26日に五つの場所、つまり寛永寺境内の上野公園、浅草の浅草寺境内の浅草公園、芝の増上寺境内の芝公園、深川の富岡八幡宮境内の深川公園、飛鳥山公園の設置を願い出ました。

計画では、府は公園の半分を真の公園として、残り半分に貸座敷や飲食店として貸し出して、その収入を公園の管理費に充てる算段だったのです。

「上野公園内の景」(小林清親 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「上野公園内の景」小林清親】
「上野公園の図」(小林清親(松木平吉)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「上野公園の図」小林清親】

その後、東京府による上野公園選定は認められましたが、文部省が引き下がることはありません。

現在の公園用地の南側の三分の一程度が公園となったものの、その他は文部省管轄のままで、大学設置が決められたのです。

太政官と東京府は合意がないままでしたが、東京府は公園整備に着手し、明治8年(1875)7月には不忍池一帯が公園に編入されたのでした。

上野公園開園式

ところが、明治9年(1876)1月に上野公園が内務省博物局の所管に変更されたのです。

ここで花見茶屋の撤去、馬車道の整備、ベンチやトイレ・休憩所の設置など公園の整備が一気に進められました。

こうして明治9年(1876)5月9日、明治天皇皇后の行幸啓を仰いで上野公園開園式が華々しく挙行されたのです。

ところで、この時内務省博物局へ移管されたのは、五つの公園のうち上野公園のみ。

また、あれだけ文部省がこだわっていた上野山での大学開設をあきらめたのはどうしたわけでしょうか。

じつは、これには明治政府のある国策が背景にあったのです。

町田久成(『大日本名家肖像集』経済雑誌社 編集・発行、1907 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【町田久成『大日本名家肖像集』より】
「博物館ノ基礎ヲ定ムル議」(町田久成、明治9年3月20日 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「博物館ノ基礎ヲ定ムル議」町田久成、明治9年3月20日】

内国勧業博覧会

上野公園が内務省の管轄となったのは、ここに博物館を建設し、博覧会を開催する目的があったのです。

ウィーン万博などの影響を受けて、町田久成や佐野常民から博物館建設の必要性が強く訴えられました。

これを聞いた大久保利通は、「富国強兵・殖産興業」を推し進めるために、勧業施策として博覧会の開催と博物館開館が急務と考えたのです。

大久保利通(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【大久保利通(出典:近代日本人の肖像)】

そこで大久保は、大博物館建白書を政府に具申した結果、明治9年に上野公園が内務省に移されたのです。

この結果、本坊跡を博物館用地とし、上野公園では第一回内国勧業博覧会が開催されることになりました。

博覧会は明治10年(1877)8月21日から11月30日にわたって開催され、出品数8万4,353点、出品者約1万6,000人、入場者数45万人を超える大盛況となったのです。

「内国勧業博覧会開城御式の図」(楊洲橋本正義(山本利兵衛、明治10年)国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「内国勧業博覧会開城御式の図」楊洲橋本正義(山本利兵衛、明治10年)】
「東京名所之内 上野山内一覧之図」(惺々暁斎(武川清吉、明治10年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「東京名所之内 上野山内一覧之図」惺々暁斎(武川清吉、明治10年)3枚組の2枚】

これ以降、殖産興業政策のそった内容の博覧会・共進会が次々と開催されるようになりました。

また、こうした中で、公園施設も次第に整備されていきます。

博物館・動物園の開業

さらに、内国勧業博で建設した建物の一部を利用して、博物館の設立準備が進められ、明治15年(1882)3月には東京国立博物館と上野動物園が開業、さらに明治18年(q885)には教育博物館(現在の国立科学博物館)、東京図書館(現在の国立国会図書館)が公園内に移転して、現在みられるような公園の基礎をつくりました。

その後、明治19年(1886)3月に博物局が宮内省に移されたため、上野公園は宮内省の所管となりますが、大正13年(1924)に東京府に下賜されて、「恩賜上野公園」として改めて開園しています。

今では都民になくてはならない憩いの場、自然と文化を満喫できる貴重な場所・上野公園に感謝するばかりです。

上野公園(『地理写真帖 内國之部 第3帙』野口保興 編(東洋社、明治33年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【上野公園『地理写真帖 内國之部 第3帙』より】

(この文章は、『上野公園ものがたり 開園式典から120周年』(㈶東京都公園協会 編集・発行、1996)、『上野公園』小林安茂(郷学舎、1980)、『下谷区史』(東京市下谷区 編集・発行、1935)および『国史大辞典』関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月8日

明日(5月10日

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