銀行の生まれた日、そして銀行の未来

第一国立銀行が設立された日

6月11日は、明治6年(1873)に日本で最初の近代的金融機関である第一国立銀行が設立された日です。

そこで、第一国立銀行の歴史を概観して、日本の近代化を支えた銀行の歴史をみてみましょう。

「国立銀行」誕生

明治3年(1870)から明治政府は、我が国の金融制度を根本的に改革するために、近代的な金融制度の導入を検討していました。

というのも、太政官札などの不換紙幣の償却が重要な政策課題となっていたからです。

伊藤博文(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【伊藤博文(出典:近代日本人の肖像)】

アメリカでの調査から帰国した大蔵小輔・伊藤博文は、南北戦争期に制度化された戦時公債を抵当にして銀行券発行を行うナショナル=バンク制をモデルとする銀行制度の創設を主張しました。

ところが、吉田清成大蔵小輔らは、伊藤の案では不換紙幣償却の目標を達成できないとして、イギリス流のゴールド・バンク制度を主張して伊藤と対立したのです。

結局、銀行券の正貨兌換準備割合をアメリカの制度よりも高くする調整が行われたすえに、伊藤の案が採用されました。

ちなみに、ナショナル=バンクを「国立銀行」と訳したのは渋沢栄一とされます。

「国立」を冠しているにもかかわらず民間銀行というややこしさは、現代の受験生たちを悩ませているそうです。

渋沢栄一(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【渋沢栄一(出典:近代日本人の肖像)】

第一国立銀行の危機

明治5年(1872)11月に施工された国立銀行条例に準拠して、最初に第一国立銀行が明治6年(1873)6月11日の総会で設立されると、7月20日に営業を開始しました。

これに東京第六(明治6年12月10日日営業開始、以下同じ)、横浜第二(7年8月13日)、新潟第五(7年3月1日)の三行がつづきます。

とはいえ、いずれも開業後は業績が不調であるうえ、これに続く新設行もありませんでした。

第一国立銀行についてみてみると、資本金244万800円の大半は、江戸時代からの大商人である三井組と小野組から出資されています。

第一銀行設立時の役員集合写真(『世界の驚異国宝渋沢翁を語る』渋沢栄一翁頌徳会 編(実業之世界社、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【第一銀行設立時の役員集合写真(『世界の驚異国宝渋沢翁を語る』より) 前列右から三野村利左衛門、渋沢栄一、三井高福、右端永田甚兵衛】
第一銀行発行紙幣(『第一銀行五十年小史』第一銀行 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【第一銀行発行紙幣(『第一銀行五十年小史』より)】

そして大蔵省を辞任した渋沢が総監役という経営最高責任者に就きました。

しかしながら、他の三行とともに、小野・島田の破産や金貨流出の影響により、開業後まもなく経営不振に陥ってしまいます。

その結果、政府に対して営業資金の借り入れや銀行券の金兌換の廃止を請願する有様でした。

これは、折からの金価格の上昇と、商人たちが銀行へ不信感を抱いたことが相まって、兌換請求が相次いだことが背景にありました。

第一国立銀行は、この危機に対して小野組出資分100万円を減資し、資本金を150万円とします。

ところが、この減資を機に、政府は第一国立銀行から大蔵省官金取扱の特権を回収したため、同行の経営は困難な状態に陥ってしまいました。

そこで、同行は生糸や米国などの商品担保の短期貸出業務を開拓して経営の刷新を図り、なんとか立ち直ったのです。

「海運橋(第一銀行雪)」(『清親畫帖』小林清親、国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【「海運橋(第一銀行雪)」(『清親畫帖』より)第一国立銀行の特徴ある本店は、新しい時代の象徴として観光名所になりました。】

第一国立銀行の発展

明治9年(1876)8月には、秩禄処分や士族授産といった差し迫った政策課題にも対応するために、国立銀行条例は改正されて、大幅に規制緩和されました。

ちなみに、秩禄処分とは士族への給料を廃止する代わりに、金禄公債という債権を退職金代わりに渡すという処置でした。

「士族授産」とは、この処置で職を失った武士たちを、新しい産業の担い手にする取り組みのことです。

この規制緩和によって国立銀行は一気に増加し、京都第百五十三銀行を最後に打ち切られます。

こうして日本各地に設立された銀行は、積極的に投融資活動を行ったので、国策だった殖産興業に大きな役割を果たしたのです。

その後、明治15年(1882)日本銀行設立により、紙幣の中央集権的発券制度が出来上がったので、明治16年(1883)5月に国立銀行条例が再改正されます。

国立銀行は開業後満二十年の間に普通銀行へと転換するよう定められ、ようやく国立銀行という名の民間銀行は姿を消したのです。

この時、第一国立銀行も転換して第一銀行に改組しました。

明治35年の本店(『第一銀行五十年小史』第一銀行 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション )の画像。
【明治35年の本店(『第一銀行五十年小史』より)】
佐々木勇之助頭取(『第一銀行五十年小史』第一銀行 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【佐々木勇之助第二代頭取(『第一銀行五十年小史』より)

第一銀行のその後

ここからは、第一銀行のその後をみてみましょう。

普通銀行改組前から経営は順調に発展して、明治11年(1878)6月に釜山支店を開設していち早く朝鮮に進出しています。

その後、明治38年(1905)1月には韓国にける銀行券の独占発行と国庫金取扱の特権を得て、事実上韓国の中央銀行の役割を果たすまでになりました。

この状況は、明治42年(1909)の韓国銀行設立時にこれらの特権を譲渡するまで続きます。

旧第一銀行本店、1930年竣工(Wikipediaより20220601ダウンロード)の画像。
【旧第一銀行本店、1930年竣工(Wikipediaより)】

また、大正元年(1912)には二十銀行、大正5年(1916)に京都商工銀行を合併して、規模を広げました。

ところが、第一次世界大戦後は、主な融資先だった海運業や古川財閥の不振のために業績が伸び悩みます。

大正8年には貯金量が日本一だったのが、昭和元年(1926)には4位まで後退し、軍需ブームの波に乗る財閥系銀行に対して劣勢となってしまいます。

そこで、昭和18年(1943)4月には三井銀行と合併して帝国銀行を設立し、事態の打開を図ります。

ところが、終戦を迎えると、昭和23年(1948)には第一銀行と帝国銀行(のちに三井銀行)とに分離しました。

昭和46年(1971)には日本勧業銀行と合併して第一勧業銀行を設立、さらに平成14年(2002)に第一勧業銀行・富士銀行などが合併してみずほ銀行が誕生して、現在は日本の三大メガバンクの一角を占めています。

そして現代。

IT革命から続く情報化社会とグローバリズムの拡大により、明治時代に作り上げられた「銀行」の役割が変わりつつあります。

はたしてこれからの銀行は、どのような姿を見せてくれるのでしょうか。

国立第一銀行時代の本店(『第一銀行五十年小史』第一銀行 編集・発行、大正15年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【国立第一銀行時代の本店(『第一銀行五十年小史』より)】

(この文章は、『第一銀行五十年小史』(第一銀行 編集・発行、大正15年)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月10日

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明日(6月12日

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