飯沼慾斎に学ぶ、高齢者活躍の極意

6月27日は、1865年(慶応元年閏5月5日)に蘭学者の飯沼慾斎が亡くなった日です。

そこで、慾斎の生涯から、超高齢化社会を迎えた現在の日本へのメッセージを探ってみましょう。

飯沼慾斎(『日本肖像大観』第一巻、永井菊治 編(吉川弘文館、明治41年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【飯沼慾斎(『日本肖像大観』より)】

略歴

飯沼慾斎(いいぬま よくさい)は、天明2年6月10日(1782年7月19日)に伊勢国亀山、現在の三重県亀山市の富農・西村信左衛門の二男として生まれました。

名は守之、のちに長順、幼名は本平で、通称は龍夫(竜夫)、号が慾斎です。

12歳の時に学を志して家出をし、美濃国大垣で医師を開業していた叔父・飯沼長顕に寄宿します。

そうしたなか、幕命により全国で薬草採集を行っていた博物学者・小野山蘭山が美濃に来たときに、弟子入りを許されて、本草学を学んだのです。

「蘭山翁画像」谷文晁、国立国会図書館デジタルコレクション〔部分〕の画像。
【「蘭山翁画像」谷文晁〔部分〕】

さらに京に上って医学を修めると、大垣に戻って長顕の養子となり開業すると、たちまち評判となりました。

しかし、28歳のときに蘭方医が優れているとの話を耳にすると、医院をたたみ、妻子を親戚にあずけて上京し、江戸在住の津山藩医・宇田川榛斎に入門を願いました。

榛斎は慾斎の覚悟を聞いて感服し、自身と高弟の藤井芳亭の両方から学ぶようにすると、わずか1年間で蘭方医学を習得したのです。

宇田川榛斎(『中外医事新報(289)』日本医史学会 編集・発行、1892 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【宇田川榛斎(『中外医事新報(289)』より)】

そこで慾斎は大垣に帰り、蘭方医として開業したところ、大いに名声があがったのです。

50歳で家を義弟・健介に譲り、大垣西郊の長松村に平林荘を作って引退し、大好きな少く物の研究に明け暮れる日々を送ります。

文政11年(1828)には人体解剖を行い、本業の医業でも先駆的存在。

60歳を過ぎても壮健で知識欲旺盛であり、みずから慾斎、「欲しがる人」と号した一字をみても、その意欲を知ることができるでしょう。

慾斎は、50歳の時から30年にわたって苦心しながら研究した結果、リンネの分類式に準拠した、わが国で初めてとなる近代科学的植物図説『草木図説』を完成させたのです。

飯沼慾斎(『中外医事新報』(303)、日本医史学会 編集・発行、1892 国立国会図書館デジタルコレクション〔部分〕)の画像。
【飯沼慾斎(『中外医事新報』(303)より〔部分〕)
飯沼慾斎尺牘(国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【飯沼慾斎尺牘(後半部分)】

この『草木図説』執筆中にも、68歳でみずから種痘を試みていますし、70歳を超えて門人とともに写真術の研究をはじめています。

80歳で博物学・医学・本草学の知識を広めようと、シーボルトに入門しようと考えますが、門人たちが高齢を心配して制止したために断念。

最晩年には、足を痛めたものの、山駕籠に乗っては深山まで植物採集に出かけたといいます。

慶応元年閏5月5日(1865年6月27日)に84歳で没しました。

明治42年(1909)に従四位を追贈されています。

『草木図説』

『草木図説』は、草部20巻、木部10巻、禾本沙草無花部10巻からなり、江戸時代において最も完成度の高い近代的植物図説です。

それまで、西欧で発達した近代植物学は、伊藤圭介の訳書『泰西本草名疏』により紹介されていたものの、これは掲載された植物の学名を和名や漢名と対照させたものでした。

伊藤圭介(88歳)『伊藤圭介先生ノ伝』梅村甚太郎 編集・発行、1927 国立国会図書館デジタルコレクション〔部分〕の画像。
【伊藤圭介(88歳)(『伊藤圭介先生ノ伝』より〔部分〕)】

しかし慾斎は、当時の植物学の専門書で、植物の説明が文章だけであることに不満を抱いて、わかりやすい図と文による説明が必要と考えます。

そこで、自分の目で見たすべての植物を、みずから色彩画に描き文字でも特徴を記述、さらに圭介の訳書や西欧の諸書を参考にして学名を定めたうえで、リンネの体系により配列したのです。

いっぽう、微細なものをみるうえで顕微鏡が欠かせないとみると、蘭書から考案して、地元の職人と顕微鏡を作って使用しています。

また慾斎は、各地で植物を採集するだけでなく、種子を入手して自園に植えていたそうです。

『草木図説』前編巻一〔表紙〕(飯沼慾斎、安政3年 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『草木図説』前編巻一〔表紙〕、飯沼慾斎、安政3年】

こうして慾斎の寝食を忘れるほどの熱意の末に完成した『草木図説』は、日本でついに西欧の近代植物学が完全に消化された記念碑的著作といえるでしょう。

この大業は、慾斎一人でなしえたものではなく、山本亡羊、伊藤圭介、江馬活堂といった当時の学者たちの協力があったのはいうまでもありません。

さらに、慾斎がみずからすべて描いた植物の図、なかでも花部の解剖図を添えて緻密かつ正確に描かれた図のかずかずは、その正確さと美しさが海外にまで知れ渡りました。

こうして、慾斎の生前に刊行されたのは草部20巻のみでしたが、その価値は時代を経ても減ずることなく、海外でも高く評価されているのです。

そして、牧野富太郎の尽力で、増訂草木図説が昭和に入って出版されるまでになりました。

牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【牧野富太郎(出典:近代日本人の肖像)】

木部の刊行は、慾斎の死後120年たった昭和52年(1977)にようやく実現しています。

高齢者の希望

慾斎が、老齢になってもあくなき探求心で研究を進めた結果、世界的な業績を上げた点は注目すべきでしょう。

それと同時に、老齢になってからでも、必要とあれば、絵画や顕微鏡作成など、未知のものにもチャレンジしていく姿勢はすばらしいものがあります。

強い好奇心、探求心を持ち続けることが なにより大切なのです。

超高齢化社会を迎える今日の日本で、飯沼慾斎という人物に学ぶべきところが数多くあるように思えてなりません。

飯沼慾斎(『郷土の偉人 上』岐阜県教育会 著・発行、1943 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【飯沼慾斎(『郷土の偉人 上』より)】

(この文章は、『中外医事新報』(303)、日本医史学会 編集・発行1892、『西濃人物誌』西濃聯合教育会 編(西濃印刷、1910)、『郷土の偉人 上』岐阜県教育会 著・発行1943、および『国史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月26日

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明日(6月28日

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