内田魯庵に学ぶ、人との付き合い方

6月29日は、昭和4年(1929)に作家・評論家の内田魯庵が亡くなった日です。

そこで、魯庵の生涯をたどりながら、現代へのメッセージを探ってみましょう。

「中退魔」魯庵

内田魯庵(うちだ ろあん)は、明治元年閏4月5日(1868年5月26日)、江戸・下谷車坂六軒町の御家人屋敷で生まれました。

本名は貢(みつぎ)、魯庵のほか不知庵、藤阿弥などの号を用いています。

父・鉦太郎は上野東照宮警固御用人組勤仕の幕臣でしたが、維新後は東京府庁に勤めています。

魯庵は小学校を卒業すると、同人社・立教学校・大学予備門、東京専門学校(のちの早稲田大学)などに学びましたが、いずれも中退して、結果的にどこも卒業していません。

内田魯庵(Wikipediaより20220626ダウンロード)の画像。
【内田魯庵(Wikipediaより)】

そのいっぽうで、築地居留地で知り合ったフルベッキに愛されて英語力を身に着けています。

遠縁にあたる翻訳家・井上勤の仕事を手伝ううちに、幼少のころから親しんだ江戸文芸にくわえて、18世紀のイギリス文学と、英訳された大陸文学をどん欲に吸収して、批評家としての知的基盤を培いました。

評論家デビュー

明治21年(1888)10月、魯庵21歳の時に最初の評論となる「山田美妙大人の小説」を『女学雑誌』で発表します。

時はあたかも碩友社の勃興期、評価を得つつあった山田美妙・尾崎紅葉らの小説に対する批評を巌本善治主宰の『女学雑誌』に掲載すると一気に評価を得ることになったのです。

山田美妙(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【山田美妙(出典:近代日本人の肖像)】

明治23年(1890)2月には、徳富蘇峰に請われて国民新聞社に入社し、『国民新聞』創刊から半年在籍したのを皮切りに、『国民之友』、『以良都女』、『太陽』などに批判の論陣を張ることになりました。

この当時の魯庵は、活発な論評活動から、石橋忍月と並ぶ新進評論家として広く認められるようになります。

また、明治22年(1889)にドストエフスキーの『罪と罰』に初めて接したうえ、同じ年に二葉亭四迷との出会い、下流細民のルポタージュで知られた横山源之助や松原岩五郎との交流からも大きな影響を受けたのです。

二葉亭四迷(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【二葉亭四迷(出典:近代日本人の肖像)】

こうして、リアリズム文学への真摯な情熱、持ち前のアイロニーを好む批評精神、魯庵の文学観を確定させることになりました。

ここから碩友社の遊戯主義を批判するとともに、功利主義的文学観と激しくぶつかることになったのです。

明治25年(1892)には『罪と罰』二巻の翻訳を行ったのち、明治31年(1898)には『くれの廿八日』を発表して小説家としても活動をはじめています。

『罪と罰』〔表紙〕(ドストイエフスキイ(内田魯庵・訳)(内田老鶴圃、明治25年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『罪と罰』〔表紙〕ドストイエフスキイ(内田魯庵・訳)(内田老鶴圃、明治25年)】
『社会百面相』〔表紙〕(内田魯庵(博文館、明治35年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『社会百面相』〔表紙〕内田魯庵(博文館、明治35年)】

当時、社会小説論議が起こると、政界の腐敗に憤激し、「政治小説起これよ」とよびかけ、みずからも英国のアディスンにならった『社会百面相』の連作を発表しました。

矢野竜渓や宮崎湖処子への批判が、蘇峰ら民友社の文学観と対立するようになったことが、国民新聞を退社の原因とも言われています。

矢野竜渓(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【矢野竜渓(出典:近代日本人の肖像)】

丸善入社

いっぽう、はやくから近松門左衛門の再評価と松尾芭蕉研究を行ってきた魯庵は、ビブリオグラフィティー(伝記文学)を執筆する志を持っていたことと、生活の安定のために、明治34年(1901)に丸善に入社、『学鐙』の編集にあたったほか、洋書輸入の顧問となって、没するまで務めています。

いっぽう、丸善入社後は文芸批判や小説から距離を置き、随筆と考証を行います。

そうした中で、『復活』などの翻訳、文壇回想録『思ひ出す人』、随筆集『バクダン』『貘の舌』に収められる文明批判でその面目を見事に示し、書籍に対する該博な紹介と保護・普及に尽力します。

昭和4年(1929)6月29日、62歳で没しました。

『おもひ出す人々』〔表紙〕(内田魯庵(春秋社、大正14年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【『おもひ出す人々』〔表紙〕(内田魯庵(春秋社、大正14年)】

明治文化を伝える

多岐にわたる魯庵の活動の中で、現在もっとも評価が高いのが後半生の活動です。

二葉亭四迷の死を受けて、坪内逍遥と『二葉亭四迷』、逍遥と池辺三山と『二葉亭四迷全集』を刊行したことにはじまるとみてよいでしょう。

「二葉亭の一生」を手はじめに、斎藤緑雨、山田美妙、淡島寒月の父・椿岳、「最後の大杉」「鴎外博士の追憶」と、『思ひ出す人々』(大正14年)にまとめられた評伝文の数々など、優れたリテラリー・ポートレイトを発表して明治期の作家たちの姿を今に伝えるだけでなく、その作品の背景を教えてくれるのです。

内田魯庵(昭和4年)(『蠹魚之自伝』内田魯庵(春秋社、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【内田魯庵(昭和4年)(『蠹魚之自伝』より)】
魯庵自筆原稿(「魯庵随筆」内田魯庵(国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【魯庵自筆原稿(「魯庵随筆」)】

吉野作造らの明治文化研究の賛助員になるなど、読書文化の向上と同時代を生きた作家たちの顕彰に後半生をささげた魯庵は、明治の時代と文化を語る上で、まさに忘れることができない人物となったのです。

生前葬

さて、内田魯庵といえば、少し変わった人物で、二葉亭四迷や夏目漱石との交友が知られています。

「夏目漱石」(『漱石全集-第5巻』夏目漱石(漱石全集刊行会、1924)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【夏目漱石(『漱石全集-第5巻』より)】
柳田国男(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【柳田国男(出典:近代日本人の肖像)】
長谷川如是閑(『アサヒグラフ』 1951年11月21日号、Wikipediaより20220626ダウンロード)の画像。
【長谷川如是閑(『アサヒグラフ』 1951年11月21日号、Wikipediaより)】

そうしたこともあってか、魯庵が亡くなる少し前に、みずから死亡広告を書き、柳田国男、長谷川如是閑、笹川臨風らによって、無宗教の友人葬が行われました。

現在はちょっとしたブームになっている生前葬ですが、このころはとても珍しいことだったようです。

なんとも魯庵の人柄がうかがえるエピソードではないでしょうか。

魯庵に学ぶ

多くの友人を持った魯庵ですが、その評論のはしばしに相手への敬意と共感を感じることができます。

きっと、相手にもそれが伝わったからこそ、多くの人たちに愛されたのでしょう。

魯庵の博識に倣うことは不可能ですが、人への敬愛と共感をもつことは、見習いたいものです。

内田魯庵(『世界大衆文学全集 第68巻』(改造社、昭和6年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【内田魯庵(『世界大衆文学全集 第68巻』より)】

(この文章は『近代日本文学大事典』『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『夏目漱石周辺人物事典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月28日

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明日(6月30日

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