徳川家達が教えてくれる人生で大切なこと

政治家・徳川家達が亡くなった日

6月5日は、昭和15年(1940)に徳川公爵家当主で政治家の徳川家達が亡くなった日です。

そこで、偉大な政治家である家達の生涯をたどってみましょう。

公爵 徳川家達

徳川家達(いえさと)は、文久3年(1863)7月11日に江戸城内の田安邸で生まれました。

父は田安家当主徳川慶頼、母は高井氏で、家達は三男で、幼名は亀之助です。

慶応元年(1865)田安家六代当主で慶頼の長男で家達の兄・寿千代が夭折したため、家督を継ぎます。

慶応2年(1866)に将軍徳川家茂が家達を継嗣にする遺志を示して病没しますが、家達がまだ4歳と幼かったために徳川慶喜が将軍を継ぎました。

徳川家達(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【徳川家達(出典:近代日本人の肖像)】

明治元年(1868)1月の鳥羽・伏見での敗戦後、慶喜は江戸上野寛永寺で謹慎したことから、閏4月田安亀之助に徳川宗家の相続を命じる朝旨が出されます。

そこで、翌月に亀之助は家達と名を改めて、駿河国府中(静岡)藩主70万石に封じられたのです。

明治2年(1869)6月には版籍奉還により静岡藩知事となり、明治4年(1871)7月の廃藩置県により知事を免ぜられると、明治10年(1877)6月からイギリスに留学。

明治15年(1882)10月に帰国すると、明治17年(1884)7月に公爵を授けられ、同じ年に近衛忠房長女の泰子と結婚します。

そして明治36年(1903)貴族院議長となり、なんと昭和8年(1933)までの30年間にわたって、この職を務めたのです。

この間に、大正3年(1941)3月にはシーメンス事件で山本内閣が総辞職した際に、組閣の内命が出されるものの、これを固辞しています。

松方正義(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【松方正義(出典:近代日本人の肖像) 山本権兵衛内閣総辞職後に元老として徳川家達の首相就任を上奏しました。山県ら他の元老も賛同しますが、本人が固辞したのです。】

また、大正10~11年(1921~22)のワシントン軍縮会議には、加藤友三郎・幣原喜重郎とともに全権大使となって出席しています。

また、済世会会長・日本赤十字社社長・日米協会会長・華族会館議長・斯文会会長・1940東京オリンピック組織委員会委員長・学習院評議会議長・恩賜財団紀元二千六百年奉祝会会長など、さまざまな役職を歴任したのです。

昭和15年(1940)6月5日に78歳で没しましたが、死と同日に大勲位に叙され、菊花大綬章を授けられました。

十六代様

徳川家達は、徳川宗家の当主として「十六代様」とも呼ばれていましたが、

このような家達を、山県有朋は、「徳川公は中正の人」と評しましたし、政治評論家の鵜崎熊吉は「無色透明」と評しました。

また鵜崎は、家達の貴族院議長としての姿勢を「征夷大将軍の三百諸侯に臨むが如く、飽まで威圧的」であるとともに、「公事に於ては公は又一点の情誼を許されない」公平性があり「理想的議長の態度」と評しています。

徳川家達(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【徳川家達(出典:近代日本人の肖像)】
徳川家達(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【政務を執る徳川家達(出典:近代日本人の肖像)】

いっぽう、「憲政の神様」尾崎行雄は、重要な議事がある場合は衆議院の傍聴席に必ず家達の姿があり、その勤勉さには感心させられたと述べています。

また、貴族院議員について、それぞれの経歴や人となりをすべて記憶していたというから驚きです。

全権大使としてワシントン軍縮会議に参加した時には、国内でも賛成と反対が激しく対立する状態でしたので、批判が集中することがありましたが、家達の勤勉さと公平な点は、誰しもが高く評価していました。

名誉的な役職を数多く歴任したことも、このような家達を世間が広く認めていた証拠といえるでしょう。

柳田国男との確執

このように、まさに華族の鑑ともいえる家達ですが、政治的・社会的・経済的背景がないのにもかかわらず、激しく対立した人物がいました。

それが大正3~8年(1914~19)に貴族院書記官長を務めた柳田国男です。

柳田国男(Wikipediaより20210323ダウンロード)の画像。
【柳田国男(Wikipediaより)】

柳田が務めた貴族院書記官は、貴族院議長を補佐すると同時に、貴族院議会事務局のトップという重要な役職でした。

家達はここまでみてきたように、長きにわたって貴族院に君臨し、謹厳実直で世間の信用もすこぶる篤く、いかにも殿様然とした人物です。

二人の対立の原因について柳田は、家達が書記官を「三太夫」扱いしたためといいますが、いかにもありそうなことではないでしょうか。

しかも柳田は、人一倍自尊心が強く、頭が切れて、驚くほど頑固なうえ、誰に対しても直言をはばからない性格ですから、これではそりが合わないのは当然かもしれません。

徳川家達公の無造作振り(『名流漫画』森田太三郎 著・画(博文館、明治45年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【徳川家達公の無造作振り(『名流漫画』森田太三郎 著・画より)徳川家達公爵は、まんがに描かれるほど人気があったそうです。これは大好きな相撲観覧の様子。】
徳川家達書簡 水野直 宛(大正8年9月26日)国立国会図書館デジタルコレクション (2)
【徳川家達書簡 水野直 宛(大正8年9月26日)】

そして柳田は家達のことを「偏狭我儘ニシテ自ラ公明ヲ装フモ窃ニ陰険手段を弄ス」のが我慢ならないと評しているのです。

いっぽうの家達もよほど柳田が嫌だったようで、徳川一門が総がかりになったうえ、元老の西園寺公望や柳田の恩師・岡野敬治郎まで担ぎ出して辞任を迫る状況になっていました。

とはいえ、これほどまでに家達が嫌ったのは、家達の「私行」、つまり何らかのスキャンダルが関係したからとのむきもあります。

そして、柳田も辞任時には これを暴露する構えを見せて、頑強に抵抗したのです。

家達のスキャンダルが女性問題なのか、はたまた男性問題なのかは諸説あって分かりませんが、弱みを握られているとはいえ、家達が柳田を嫌う様子はちょっと異様に感じます。

寄ってたかっての柳田下ろしが功を奏して、柳田はついに大正8年(1919)12月21日に辞任しました。

その後、官界を去って学問に専心し、民俗学を築き上げる偉業を成し遂げたのは皆さんもご存じのとおりです。

いっぽうの家達は、ワシントン軍縮会議で苦労を味わうものの、昭和8年(1933)に「健康問題」で貴族院議長を辞任するまで、貴族院に君臨し続けたのです。

謹厳実直で、世間からも「十六代様」と尊敬と信頼を集めた徳川家達ほどの人物でも、どうしようもなく嫌いな人間がいたという事実は、私を少し安心させてくれます。

そう、嫌いな人がいるのは、当たり前のこと。

嫌いで いいのです。

徳川家達公爵(昭和11年(1936)撮影、Wikipediaより20220527ダウンロード)の画像。
【徳川家達公爵(昭和11年(1936)撮影、Wikipediaより)】

(この文章は、『貴族院議長・徳川家達と明治立憲制』原口大輔(吉田書店、2018)、『第十六代徳川家達―その後の徳川家と近代日本―』(祥伝社新書)樋口雄彦(祥伝社、2012)、『貴族院書記官長 柳田国男』岡谷公二(筑摩書房、1985)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月4日

明日(6月6日

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