6月21日・今日なんの日?

星亨暗殺事件の日

6月21日は、明治34年(1901)に星亨が暗殺された日です。

江戸っ子・星亨の激しすぎる歩みを振り返ってみましょう。

星亨(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【星亨(出典:近代日本人の肖像)】

代議士への道

星亨(ほし とおる)は、嘉永3年4月14日(1850年5月25日)に左官職人の佃屋徳兵衛を父に、母・松の子として江戸の築地小田原町で生まれます。

しかし生活が立ち行かず一家は離散、母が医師・星泰順と再婚したため、星姓になりました。

貧困の中、神奈川奉行所附属英学校・開成所で英語を学び、明治2年(1869)に兵庫県知事であった陸奥宗光の知遇を得ました。

陸奥宗光(『伯爵陸奥宗光遺稿』陸奥宗光(岩波書店、1929)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【陸奥宗光(『伯爵陸奥宗光遺稿』より)】

イギリスへ留学してロンドンのミドル=テンプル法学院で学び、バリスター(法廷弁護士)の資格を得て明治10年(1877)8月に帰国。

翌明治11年(1878)2月に司法省付属代言人に就任するかたわら、自宅で代言人事務所を開業して名声と経済的基盤を獲得しました。

明治15年(1882)自由党に入党して党の維持に奔走しますが、明治17年(1884)10月に離党。

その後は党派の別を越えた民権運動再建につとめ、明治20年(1887)7月ごろから活発化した条約改正反対運動と結びつけることに成功したものの、出版条例違反で逮捕されてしまいます。

後藤象二郎(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【後藤象二郎(出典:近代日本人の肖像) 星は、民権運動再建に、後藤象二郎を担ぎ出しました。】

大日本帝国憲法発布による大赦で出獄すると、1年半にわたって欧米諸国を歴訪しました。

帰国後は再結成された自由党に参加し、第三回総選挙ではじめて議席を獲得したうえ、第三議会では衆議院議長に就任します。

ところが、当時外相として条約改正交渉にあたっていた恩人、陸奥宗光を支援する目的で自由党を当時の第二次伊藤内閣との接近を画策したのです。

これが、改進党からの反発はもちろん、自由党内の反対派からの反発を受けて、第五議会において議長不信任上奏案を可決された末、議員を除名されてしまいました。

復活

明治29年(1896)4月に駐米公使となってアメリカに渡り、公務のかたわらニューヨーク市政を牛耳るタマニー派の政治手法や、ハワイ移民事業への関心を深めて研究しています。

大隈重信(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【大隈重信(出典:近代日本人の肖像)】

明治31年(1898)6月に憲政党を与党とする第一次大隈内閣(隈板内閣)が成立すると、8月には無断で帰国して議会での活動を再開しました。

内閣が旧進歩党系と旧自由党系との対立で動揺するのを利用して、倒閣と憲政党から旧進歩党系議員を追放するのに成功します。

さらに次の第二次山県内閣と憲政党の堤携を成立させることにも成功し、地租増徴などの日清戦争経営上の懸案を一気に解決したのです。

山縣有朋(『近世名士写真 其1』近世名士写真頒布会、1935 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【山縣有朋(『近世名士写真 其1』より)】

さらに、ハワイ移民事業などで得た豊富な政治資金を大胆かつ効果的に投入して、政治工作を行ったといいます。

明治32年(1899)の全国府県会選挙では、治水事業をはじめとする地方の利益実現を唱えて憲政党を勝利に導きました。

暗殺

星は、提携相手を伊藤に乗り換えて、伊藤が進める新党計画に権勢等を合流させえる形で、明治33年(1900)9月に結成した新党・立憲政友会の実権を握り、第四次伊藤内閣で逓信大臣に就任します。

伊藤博文(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【伊藤博文(出典:近代日本人の肖像)】

しかし、国政とともに自身の影響下においていた東京市会で収賄疑惑が発生し、配下の者が次々と拘引されると、星自身も関与したとのうわさが広待ってしまいました。

火消しのため、12月には逓信相を辞任しますが、それからおよそ半年後の明治34年(1901)6月21日、東京市長参事会室において、伊庭想太郎に刺殺されて死去、享年52でした。

星亨ってどんな人?

暗殺時は有数の実力者であったうえに、貧困の中から一代で成り上がった星は、当時はなかなかの人気がありました。

そのため、彼の人柄を伝える読本が多数刊行されていますので、そのうちから佐瀬得三(魯世)『当世活人画:一名・名士と閨秀〔正〕』、夏山茂樹『星亨』、足達重吉『代言人評判記』から星の人物像をみてみましょう。

まず星は、「システマチック」と自称する、大変規則正しい生活を送っていました。

肥満のためにいつも特別製の洋服を着るものの、ファッションへのこだわりは皆無に近く、自慢は300ドルした懐中時計のみ、十二度の強い近眼鏡がトレードマークです。

貧乏育ちのせいか粗食で、書画骨董には全く関心はありません。

なにより負けず嫌いで、ビリヤードやトランプなど勝負ごとに熱くなるタイプでした。

喘息の持病があるのに大酒飲み、おそらくこれが原因で体重が20~23貫目(75~83kg)の肥満体形です。

恐ろしいくらいの読書家で、日本語はもちろん、英仏独伊の諸語からスペイン語までの文献を読む、まさに博覧強記な人物で、その知識量は膨大極まりないものでした。

代言人(弁護士)時代には、その知識量を生かしておもに金銭にまつわる訴訟に無類の強さを発揮したといいます。

ケンカの名人といわれるほど喧嘩して負けなしだったといいますが、胆力と知力を総動員して頭脳で勝つタイプだったようです。

星亨(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【星亨(出典:近代日本人の肖像)】

そしてなにより親分肌で、「お山の大将」気質があり、党派を作るのが大好きという一面も持っていました。

夏山茂樹が星を評して「正直なる悪人」としているのが印象的です。

星の歴史的評価

星が暗殺されると、築き上げた政友会関東派と極めて幅広い人脈は、すべて原敬に受け継がれて、政友会で原の勢力が急速に伸長することになります。

星は、利益誘導型政治を軸とする政治手法をあみだしましたが、これは原敬を経て戦後自民党へと受け継がれて、戦後日本政治の基調を形作っていくことになったのです。

星の歴史的評価は、自民党政治の原型であるとともに、良くも悪くも日本型政党政治の特質を作り出したことにより、教科書にも載っている歴史上の重要人物となりました。

星は名前とかけて、なんでも「押し(星)通る(亨)」と揶揄された辣腕・剛腕の人物とされ、ずいぶん強面なイメージを持たれてきました。

こうしてみてみると、なんとも不思議な魅力があふれる人柄で、劇的な人生を考えると、大河ドラマの主人公にもなれそうな人物なのです。

星亨(出典:近代日本人の肖像)の画像。
【星亨(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は、『当世活人画:一名・名士と閨秀〔正〕』佐瀬得三(魯世)(春陽堂、明治32年)、『星亨』夏山茂樹(文声社、明治34年)、『代言人評判記』足達重吉(秩山堂、1883)、「星亨暗殺事件」『明治大正昭和歴史資料全集 暗殺篇』(有恒社 編集・発行、1932)および『国史大辞典』・『明治時代史大辞典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(6月20日

明日(6月22日

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