盆踊りの歴史 みんなの夏のお楽しみ

盆踊りとは何でしょうか?

それは夏のお盆に行われる踊りです。

現在は7月15日あるいは8月15日前後に寺の庭や神社の境内、町の広場、公園や道路など、様々な場所で行われています。

五七調を基本とした独特の節回しで恋唄やお国自慢が大音量で流れる中、思い思いの支度をした老若男女が大勢で音頭櫓を囲んで輪を作り、歌に合わせて揃いの振りで踊る、夏の伝統ある風流な行事です。

周囲には屋台も並んで、子供たちが待ちわびた一大イベント、元気な歓声が止むことがありません。

鳥蔵柳浅エリアでもこうした楽しい夏のイベント、柳ばし納涼盆おどり柳北おどりが行われます。

どうして開催日がバラバラなの? 揃いの衣装を着る意味は? など、盆踊りには謎や不思議が満載です。

そこで、今回は盆踊りの歴史からひも解いてみましょう。

「(風流踊り)」(宮川長春、大英博物館)の画像。
【「(風流踊り)」宮川長春、大英博物館】

盆踊りとは、本来 盂蘭盆(うらぼん)で踊られる踊りのことを指しています。

古くから日本では正月中弦と夏に祖先の霊を迎えてもてなす祭を行い、その際に先祖の霊と歌や踊りでいっしょに楽しむ風習がありました。

中世以降には念仏踊りの流行とあいまって、仏教的な意味づけから先祖を供養する踊りとして広まり定着していきます。

稲の収穫前の時期なので、豊作祈願や農作業の休みの要素が加わって地域の一大娯楽イベントに発展したのです。

「遊行上人縁起」(14世紀、 ボストン美術館蔵)の画像
【「遊行上人縁起」14世紀  多くの人たちが踊念仏を見ています。】

庶民のお盆については『蜻蛉日記』などにも見えますが、盆踊りが初めて文献に登場するのは永享年間(1429~41)のことです。

『看聞御記』には主に風流行列(特別な服装で行列する)して念仏を囃すスタイルから、民衆が集まって念仏踊りをするようになったことが記されています。

『経覚私要鈔』や『大乗院寺社雑事記』、『春日権神主師淳記』では、15世紀に奈良で念仏踊りがお盆に行われた様子を描いています。

さらに戦国時代の京都では、意匠を凝らした町衆が幟持ちを中心に輪になって踊ったことが『言継卿記』に出てきます。

このような情景は、『遊楽図屏風(相応寺屏風)』【17C重文】など、絵画資料にも好んで題材に取り上げられられました。

その後、日本各地で盛んに盆踊りが行われるようになって、地域の伝統と結びついた独自の行事へと発展していきます。

徳島の阿波踊り、沖縄のエイサー、岐阜県の郡上踊りなど耳にされた方も多いのではないでしょうか。

柳橋納涼盆踊り、櫓を中心に浴衣姿の人たちが輪になって踊る画像
【柳橋納涼盆踊りの光景。広い場所のない都心部では、道路を通行止めにして盆踊りを開催しています。みんなが二重の楕円を作って楽しく踊っています。】

その後、明治時代以降は娯楽的要素が強まってイベント化し現在の形になりました。

ところで盆踊りは7月後半と8月中旬の二つの開催時期があるのでしょうか?

それは明治時代に太陽暦を採用したことに原因があります。

明治政府は太陰暦の明治5年12月3日を太陽暦の明治6年1月1日としましたので、この時点で月数が約一か月早くなったのです。

それにともなってお盆もこれまでの旧暦7月から8月に移行することになりました。

しかし変更がしっくりこないのか、受け入れない人も出てきたことでお盆を7月15日に行う場合と8月15日に行う場合が併存するようになってしまいます。

だから、現在でも盆踊りの実施時期は開催場所によって大きく二種類に分かれるのです。

「区民納涼大会」(昭和32年(1957)千住)の画像。
【「区民納涼大会」昭和32年(1957)千住。会場はものすごい熱気です。】

現在では、踊りを愛好する方々の発表の場であったり、子供たち大興奮のイベントであったり、はたまた若い男女のデートの場であったりと、地域の人々が心待ちにするイベントになっています。

みなさんもお近くの盆踊りへぜひ足を運んでみてください。

きっとそこにはどこか懐かしい光景が広がっているに違いありません。

この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。

『日本風俗史事典』日本風俗史学会編1979、『国史大辞典』国史大辞典編纂委員会(吉川弘文館、1979~97)、『江戸学事典』西山松之助ほか編 (弘文館、1984)、『江戸東京学事典』小木新造ほか編( 三省堂、1987)、『日本史大辞典』下中弘編(平凡社、1992)、『日本民俗学大辞典』福田アジオ編 (吉川弘文館、2006)

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