【ひな祭りの話】:①ひな祭りとは? / ②ひな祭り源流、上巳の節供とは? / ③もう一つのひな祭りの源流、ひひな遊びとは? / ④ひな祭りの誕生 / ⑤現代のひな祭り / ⑥雛流しと流しびな / ⑦雛市と江戸のひな人形とは?
上巳(じょうし)とは、3月の始めの巳(み)の日のことで、もともとは「じょうみ」と読んでいました。
宮中では、この日に水辺に出て穢れを除くための禊(みそぎ)・祓(はらえ)を行ったあと、宴会を開いてお祝いしたのです。
その後、上巳の節供はわが国で独自の発展を遂げて現代のひな祭りのもととなりました。
もともと中国での上巳の行事は、けがれを払い清めて招魂を行う行事でした。これがわが国に伝わり、『日本書紀』に顕宗天皇元年を最初として幾度も記録されています。
中国では魏の時代から巳の日ではなく3日に開催と決めました。その影響で、わが国では初めて登場する大宝元年(701)の雑令で3月3日を節日と定めています。
3月3日の節供では桃花餅・草餅、のちに桃花酒や白酒などの供え物をして、闘鶏(とりあわせ)などを行いました。
神亀5年(732)3月以降はこの日の宴会が曲水(こくすい)の宴に変わり屋外で行われるようになります。
曲水の宴は、流れに盃を浮かべて文人たちが詩を作る宴です。
平城天皇のとき一時廃止されますが、嵯峨天皇がこれを復活させています。
その後、摂関時代には盛んに行われるようになった結果、朝廷の行事としてのほかに『御堂関白記』に記された藤原道長の邸宅で曲水の宴のように、貴族の屋敷でも行われることもありました。
日本に伝わった上巳の行事は、本来の招魂の意味合いが失われる一方で、わが国独特の祓(はらえ)の思想と結びつき大いに発展しました。
わが国の祓というのは、贖物(あがもの)とよばれる人形を使って、その人形を肌身にすりつけたり息を吹きかけたりして自分の罪やけがれを託した後、水辺に棄てて流すというものです。
この習俗は、『延喜式』にも記される古くからこの行事です。一例をあげると『源氏物語』須磨では、主人公の光源氏が須磨の海岸で上巳の祓を行って、人形を海に流しています。
次章では、もう一つのひな祭りの源流となった「ひひな遊び」についてみてみましょう。
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