7月7日は七夕です。
それぞれの家庭や学校などで願い事をしたためた短冊を笹竹に結んで祈る方もおられるでしょう。
また、近年では七夕に天の川と織姫彦星をイメージしたそうめんや散らし寿司でお祝いする習慣もみられるようです。
今回は七夕の歴史をひも解いてみたいと思います。
七夕は、中国の後漢(30~220)の頃に生まれた風習がベースになっています。
その中国の風習は、牽牛・織女の二つの星が年に一度会うという星合の伝説が基になって生まれました。
この星合の伝説が日本に伝わると、古来から日本にあった棚機つ女(たなばたつめ)信仰と結びついて現在の七夕のもとになる行事が誕生し、次第に定着したのです。
そして定着の過程で、織女に棚機つ女に寄せられていた裁縫をはじめ書道などの技芸の上達を祈る女神という要素が加えられ、逆にこれが重視されていくようになります。
古くは『源氏物語』ですでに、七夕を棚機つ女・織女星の意味で使っているのがわかります。
こうして、宮中を中心に七夕には山海の産物と楸の木に七本の針を刺して五色の糸で結んだ供物などを供え、星の香を焚き、詩歌管弦の宴(和歌や漢詩を読んだり雅楽を演奏したりするパーティー)が開かれていました。
下って室町時代になると歓楽的要素が強まっていきます。
その中で、梶の木に和歌を結んで供えたり花瓶に生けた花を並べて競う花合わせが行われるようになりました。
このうち、七夕の花合せは後に生け花へと発展していくのですが、その名残の行事が浅草・東本願寺で今も行われています。
また梶の木に和歌を結ぶ行為が、今日の笹竹に願いを記した短冊をかける風習のもとになりました。
そして江戸時代には、七夕は幕府の五節供の一つと定められ、大奥で盛大に行事が行われるようになりました。
大奥で行う七夕の節供は、七夕の夜に和歌を詠んで笹竹に結んで翌朝供物とともに品川の海に流すという行事でしたが、これは宮中行事に当時の民間の風習を取り入れて創出した独自のスタイルだと言われています。
これが次第に変化して、和歌に加えて願い事を記した五色の短冊や色紙、切紙細工を結ぶ行事になっていきました。
目を全国に転じると、仙台七夕や秋田竿灯、青森のねぶたなど飾りや供物を盛大に行うものがある一方で、笹を川に流す七夕流しも各地で盛んに行われているのはご存じのとおりです。
話しを江戸に戻しまして。
江戸の寺子屋では六月と七月は夏の短縮授業でした。
また、七月六・七日は節句休みで寺子屋がお休み(現在の夏休み)になるので硯を家に持ち帰ってきれいに洗い、七夕当日は笹竹と一緒に硯を持ってあがり、願いの短冊を記す席書会が広く行われていました。
七夕は寺子屋に通う子供たちにとって楽しい行事の一つだったのです。
最後にちょっと意外な事実をご紹介しましょう。
前にみた星合の伝説ですが、中国は天の川に架けた橋を織姫が渡って牽牛のもとに行くのに対して、日本は天の川を牽牛が船で渡って織姫のもとに行く形となっています。
中国からち伝わった七夕も、千年を超える時の中で様々に変化発展を遂げて、今ではそれぞれの地域で欠かせないものになっているのです。
現在の七夕は梅雨末期で雨の多い季節、しかも都会では夜空に星が見えないのでなかなか織姫と牽牛が合うことが叶わない状況になっています。
そんなこともあって、夜空を見上げる機会もめっきり少なくなったように思います。
この機会に、みなさんも夜空を見上げて七夕を楽しんでみませんか?
この文章をまとめるにあたって以下の文献を参考にしました。
『国史大辞典』吉川弘文館1979~97、『日本史大辞典』下中弘編 平凡社1992、『日本風俗史事典』日本風俗史学会編1979、『日本民俗学大辞典』福田アジオ編 吉川弘文館2006 『精選 日本民俗辞典』福田アジオ、新谷尚紀ほか編 吉川弘文館1999・2000、『江戸東京学事典』小木新造ほか編 三省堂1987、『江戸学事典』西山松之助ほか編 弘文館1984
私たちの町の小学生は、さまざまな学校行事を通じて成長していきます。入学式にはじまり、写生大会、町探検、七夕、運動会、遠足、学芸会と音楽会、席書会、そして修学旅行と卒業式。
そして六年間で様々な体験をして大人になて行く子供たちを、町のみんなで見守っているのです。鳥蔵柳浅では、子供たちの地域学習と、それを支える町のみなさんを応援しています。
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