校長毒殺事件・事件解決編(柳北小学校その9)

前回みたように、昭和10年(1935)11月21日に発生した日本初の青酸カリによる毒殺事件は、捜査対象が広範にわたるうえに、捜査本部の人員不足もあって、捜査の難航が予想されていました。

ところが意外にも、この事件は事件当日の午後11時30分ころ、犯人を検挙するというスピード解決をみたのです。

事件の解明

事件解明きっかけとなったのは、京橋警察署の外勤、寺田守巡査の申告でした。

この日の夕刊をみた寺田巡査は、浅草千束小学校に勤務する実兄から、同僚の訓導に大金を貸したと偽って校長から金を借りようとした男と事件犯人の人相風体が極めて似ていることに気づいたのです。

そこで、寺田巡査は兄や関係者に会って確認したところ、金を借りようとした男、すなわち浅草区千束町で木綿衣料品販売を営む鵜野洲武義27歳が、事件犯人と酷似しているうえに、前記の3要件に合致することが確認できたために、ただちに出署して所長に申告しました。

所長は、寺田巡査の熱意を推賞するとともに、ただちに捜査本部に出向いてこれを報告したのです。

増子菊善校長像の画像。
【事件の被害者、増子菊善校長の像】

犯人逮捕

この報告を受けて捜査本部が検討した結果、ただちに鵜野州宅に急行、鵜野州が不在であったために、捜査陣は一斉に鵜野州の立ち回り先を捜査しました。

その結果、鵜野州がこの数年、待合遊びにひけって家計が極度に苦しくなっているなどの情報が次々と集まったことから待合方面を捜査した結果、午後11時30分、浅草象潟の待合「志のぶ」で遊興中の鵜野州を発見し、逮捕しました。

そのとき、鵜野州は強奪した現金のうち、3,260円あまりを保持していたのです。

犯人の供述

捜査本部に連行された鵜野州は、すぐに犯行を認めて一切を自供します。

それによると、学校を卒業して実家の綿布既製品の小売商に従事、当初は地道な営業で商売を順調に伸ばし、妻子も得ました。

しかし、若くして成功したあとは、いつしか芸者遊びを覚え、浅草象潟町の待合に足しげく通うようになったのです。

こうなると商売は怠けるようになりますし、売り上げは遊興に浪費するので、問屋への融通もつかなくなり、知人や友人からも数千円の借金をした上に、出入りの待合にも300円近い未払いができて、借金で首が回らなくなったのは当然の成り行きでしょう。

もう一つの事件

金に困った鵜野州は、友人を殺害して彼の持つ高価な絵画を奪う計画を立てます。

それは友人を毒殺するもので、鵜野州が幼少期から好んで読んでいた探偵小説からヒントを得たものでした。

そこで、亜ヒ酸による毒殺を二度にわたって試みるも失敗したことから、書店で薬物関係の本を立ち読みして毒物の研究をし、青酸カリを用いた毒殺を思いついたのです。

そのとき、毎月21日は学校の給料日で、校長が区役所に俸給を受け取りに行くことを思い出し、教員の多い学校として柳北小学校の校長に狙いをつけたのです。

柳北小学校(『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【事件のころの柳北小学校『東京市教育施設復興図集』東京市編(勝田書店、昭和7年)国立国会図書館デジタルコレクション】

アリバイ工作

そして自分は増子校長の教え子であると嘘をついて誘い出し、毒殺したうえに騒ぎ立てて、店員たちが立ち騒ぐスキをみて職員の俸給が入った包みを盗み、店を飛び出したのです。

さらに、小泉学園まで電車で言った上に車を飛ばして知人宅を訪れるなどのアリバイ偽装まで行ったうえで、方々で飲みまわった末に中野で豪遊、そして午後10時に「志のぶ」へ席を変えて遊興していたところを逮捕されたのでした。

事件の判決

こうして鵜野州武義は強盗殺人および殺人予備罪で起訴され、昭和11年1月31日に死刑を宣告されました。

鵜野州はこれを不服として控訴しますが、同年4月7日の控訴審判決でも原審どおり死刑を宣告されると、さらに上告します。

同年8月3日の上告棄却を言い渡されて再刑が確定しました。

事件の一報

「その日の授業時間中に緊急の職員会議が開かれ、午後からの授業が休みになった。ただならぬ気配が感じられたものの、生徒たちに理由は一切説明しないままだったため、私は何も知らずに帰宅し、近所の原っぱでいつものように友達と遊んでいた。夕方近くに鈴の音とともに号外が配られてきて、初めて事件を知ったのである。」(「青酸カリ事件の思い出」)

いっぽう、事件当日も浅草松屋ホールで区内音楽コンクールが開催されていましたが、こちらは事件を知らせずに最後まで参加しました。

このように、先生方が生徒の状況に応じて対応を決めていたことがうかがえます。

その後は学校に多くの人が詰めかけて落ち着きませんでしたので、四五日は授業を中止したのでした。

学校葬

事件の1週間後には、父兄会の発案で、現在の蔵前中学校前にあった通称「満州っ原」で学校葬が厳かに執り行われました。

当日は、広場に祭壇を設け、花輪が並び、学校からは職員と上級生とが参列し、晩秋の冷たい風が吹く中で、校長先生との別れを惜しんだのです。

学校葬が行われた「満州っ原」跡地現状の画像。
【学校葬が行われた「満州っ原」跡地現状(柳橋2丁目)】

事件の衝撃

被害者の増子校長は、最終回で改めてみますが、温厚であると同時に決断力があり、教育的実力者と高く評されていたことから、事件の年に奏任官待遇を受けることになっていました。

そのため、事件前の10月ころには、学校の先生方による祝賀会や、教え子たちの祝賀会が相次ぐ状況でしたので、犯人の鵜野州もこれを利用したと伝えられたのです。

事件前の7月には臨海学校に参加されるなど、厳しい中にも優しさがあふれる増子先生は、柳北小の生徒たちから慕われていました。

事件当時に柳北小学校4年生だった槌田満文は、増子校長について「朝礼では毎朝、やせぎすな増子校長の細ぶち眼鏡にチョビひげを生やした温容に接していた。穏やかな人柄は生徒たちにも慕われていた」と懐述しています。(「青酸カリ事件の思い出」)

子供たちの自慢の先生が、それを悪用した犯人によって殺される・・・子供たちが受けたショックは、計り知れないほど大きかったのではないでしょうか。

事件の余波

「犯人はその日のうちにスピード検挙された。夜おそくまで警察署に詰めていた先生がたは、逮捕の報を聞いてビールで乾杯したが、その写真が翌日の新聞にデカデカと出てしまった。いくら犯人逮捕を喜んだにしても、乾杯はあまりに不謹慎ではないかと大問題になった」のですが、「しかし、校長亡きあとの責任者である副校長が、幸か不幸か長期病欠中だったため、だれも責任を取らされないままに終わった。」(「青酸カリ事件の思い出」)

事件の社会的影響

「青酸カリは、当時薬局や文房具店で比較的容易に入手できる時代だったから、その威力がわかるとたちまち青酸カリ自殺が流行した。翌年一月十日付けの読売新聞には「昨年十一月の浅草の校長毒殺事件が起こって以来といふもの猫も杓子も『自殺は青酸加里・・・・』といふことに相場がきまってしまった」とある。「青酸加里」は「墨東綺譚」に見られるような流行語にまでなったのである。」(「青酸カリ事件の思い出」)

身近な人が突然不幸な形でこの世を去ることは、だれしも心に大きな傷を負うものです。

ましてや、心から慕っていた校長先生が、残忍な方法で殺害されたとあってはなおさらなのは言うまでもありません。

しかし、増子校長が「児童は自ら学び、自ら伸びようとする天恵を裕かにもってゐる」(「自発的学習態度建設の過程について」)と書き残したように、突然降りかかった大きな困難にもめげず、それを乗り越えて柳北小学校の子供たちは成長していったのです。

これこそまさに、増子校長が残した功績のひとつなのではないでしょうか。

そしてそのことがのちになって、さらに大きな成果に結びつくことになるのですが、それはまた最終回でみてみましょう。

今回は、「ほのぼのとした時代」(『柳北百年』)に突如として起こった大事件と、これを子供たちが乗り越えていくところをみてきました。

しかし、このあと困難な時代が訪れることになるのです。

次回は、第二次大戦下の柳北小学校をみていきたいと思います。

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