【ひな祭りの話】:①ひな祭りとは? / ②ひな祭り源流、上巳の節供とは? / ③もう一つのひな祭りの源流、ひひな遊びとは? / ④ひな祭りの誕生 / ⑤現代のひな祭り / ⑥雛流しと流しびな / ⑦雛市と江戸のひな人形とは?
こうして宮中や大名家などで上巳の祓の形代の人形を保存しておいて、一年に一度 3月3日に娘の幸福を願って飾るという風習が誕生しました。では、現在みられる七段飾りなどの豪華なひな祭りはどのように誕生したのかについてみてみましょう。
江戸時代はじめ、新たに誕生したひな祭りの形を良く見てみると、現在も残る雛人形のうち、立雛は雛流しに使う人形の名残だとみられますし、座った姿の内裏雛はひひな遊びの人形の姿をとどめているとみることができます。
これは、江戸時代初期にはかならず立雛と内裏雛の双方を飾っていたことから分かります。
現代のようなひな祭り専用の人形を使うスタイルが定着したのは寛文年間(1661〜73)頃のことです。
また、雛壇として飾るようになったのは元禄期(1688〜1704)以降で、その頃はまだ紙雛のところが多かったようです。
こうして京から始まったひな祭りの風習が次第に広まって行き、宝暦年間(1751~64)以降の京都から江戸への文化移動につれて、文化・文政(1804~30)には江戸でも人形を飾るというひな祭りが盛んになっていきます。
次に、ひな人形そのものの変化を見てみましょう。
江戸時代中期からは人形に胡粉を塗る技術が導入されるなど、人形は紙人形から豪勢なものへと変わります。
飾る人形の種類もふえていき、それにともなって幾段もの雛壇をこしらえるようになります。
そこにさらに三人官女・随身・衛士が加わって人形の種類が増えていったのです。
ついには江戸で五人囃子の人形が作り始められ、さらに能・狂言・舞踊・歌舞伎などに取材した潮汲み・藤娘などが浮世人形と総称して飾り添えられるようになります。
雪洞・金屏風・桜・橘や、調度として膳・三方・高坏・行器(ほかい)から箪笥・長持・挟箱(はさみばこ)・貝桶・鏡台・針箱・菱台あるいは駕籠・牛車まで作られて七段飾りが誕生し、今日の雛祭の飾りとなりました。
それに、汐干狩の季節になるので、さざえ・蛤・小鯛などの海の幸を供え、慈姑(くわい)・浅葱などの野の初物を供えるという新たな風習も始められます。
ひな人形が豪華になり、人形の種類が増えて付属品が充実してくると、これを商う雛市・雛売などの商売も起こります。
江戸で確立したひな祭りは、日本の経済的発展を背景として明治・大正へと盛んになってゆきました。
太平洋戦争で一時期衰えるかに見えたひな祭りの行事も、戦後の高度経済成長とともに復活して一つのピークをなすに至ります。
しかし、近年の少子高齢化や核家族化の進行、マンション住居の増加などにより、ひな祭りを取り巻く環境は大きく変化しています。
いつの世も、娘の健やかな成長を願う親や祖父母の気持ちには変わりはありません。
日本では長い間、雛人形はその象徴的存在でした。社会環境が大きく変わる今日ですが、日本の伝統を生かしつつ、次の世代へと伝えていきたいものです。
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