生駒家江戸藩邸・屋敷跡探訪【維新の殿様 生駒家・矢島藩(秋田県)編⑨】

前回まで見てきたように、数々の困難を乗り越えて幕末維新の激動を生き抜いた生駒家。

今回はその活躍の舞台となった江戸藩邸と屋敷の跡を歩いてみたいと思います。

『江戸切絵図 下谷絵図』(戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年(1851))国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【生駒家屋敷 (赤○部分)(『江戸切絵図 下谷絵図』戸松昌訓(尾張屋清七、嘉永4年(1851))国立国会図書館デジタルコレクション)】

生駒の金毘羅

金刀比羅神社(東京都台東区台東2丁目24)からスタートしましょう。

この場所はJR山手線の秋葉原駅あるいは御徒町駅から歩いて10分ほどの、住宅街の中にあります。

金刀比羅神社社殿の画像。

この金刀比羅神社は生駒一正が、この地に幕府から屋敷を拝領(中屋敷)した際に、生駒氏が崇敬する讃岐の金刀比羅神社から分祠したもので、明治時代までは金毘羅宮と呼ばれていました。

現在、東京のそこここに金刀比羅神社(明治時代に讃岐の本山が金刀比羅神社に改名したので現名称に変更、それ以前は金毘羅宮)がありますが、こちらは江戸で最古のものです。

境内が児童遊園になっており、社務所も地元町会の事務所を兼ねているなど、極めて地元に密着していることがわかります。

また、いつ来ても美しく清掃されていることから、地元の方々に大切にされているのを強く感じずにはおれません。

金刀比羅神社扁額の画像。

さて、現在の金刀比羅神社は、戦災で焼失したものを、地元の有志達が昭和37年(1962)に再建したものです。

そして鳥居に架かる木製の扁額は、独特の趣ある特徴的なもので、ちょっとかわいらしい感じです。

金刀比羅神社の大名屋敷の守り神から町の守り神になって今でも大切にされている姿を見た時、私は心がほっこりしてなんだかうれしい気分になってきます。

さて、この金刀比羅神社、市は変わっていないのですが、江戸時代には生駒家の屋敷内にありました。

創建時から地元の人々の信仰を集めていたので、およそ185年にわたって毎月10日には屋敷の裏門を開けて人々の参詣を許してきたそうです。

また、この神社を「生駒の金毘羅」と呼んで毎月10日の縁日には市が立って大いににぎわったのだとか。

生駒家屋敷

生駒家がお家騒動(①話参照)で改易されるまでの江戸中屋敷はかなり広大で、この金刀比羅神社の南側の道から北に約150m、東西に約200mの規模でした。

生駒家屋敷地と宅地の地図画像。
【生駒家屋敷地と宅地の地図】

それが、生駒騒動以後は寄合旗本8,000石の屋敷として、ちょうど金刀比羅神社を南東隅に、東西約120m、南北約80mにまで小さくなりました。

金刀比羅神社前から西を望む画像。

金刀比羅神社から東に向かって歩いてみましょう。

この道が、かつての屋敷の南側縁にあたる道となっています。

西におよそ120mで、すこし大きな道にぶつかります。

この道は江戸時代から日光街道の一本東側にあたる幹線道路で、人の往来が激しかったところです。

かつての「生駒前」の画像。

「生駒前」

この交差点をかつての生駒屋敷に沿って北に曲がってみましょう。

江戸時代にはこの付近を「生駒前」と呼びならわしていたそうです。

生駒家の屋敷が地域のランドマークになっていたのですね。

この道を北におよそ80m進むと湯島坂下からのびる道との交差点にあたります。

この交差点を東に曲がると、三味線堀跡に続く道に出るのですが、江戸時代にはこの道がなかったようで、ちょうど生駒屋敷の北側縁にあたっています。

生駒屋敷跡地の北東隅部分の画像。

この道を120mほど東に進んでいきつく交差点で南を望むと、スタート地点の金刀比羅神社の社叢が見えています。

これで江戸時代の生駒屋敷をぐるりと一周したことになります。

ちなみに、最後の交差点が生駒家分家(①話⑦話参照)の屋敷跡の北西隅にあたっています。

ここまで江戸時代の生駒家屋敷跡を歩いてきました。

次回では、明治政府から新たに支給された生駒家宅地跡を歩いてみたいと思います。

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