前回見たように、幕末の江戸で平穏な暮らしをしていた名門生駒家の若き当主・生駒親敬。
いよいよそんな彼も、時代の巨大な渦に飲み込まれていきます。
大政奉還
親敬18歳になった慶應3年(1867)10月14日に日本を揺るがす大事件が起こったのです。
なんと、将軍徳川慶喜が突然、朝廷に大政奉還したのでした。
この一報に接した親敬は、すぐさま行動に移ります。
若者らしい行動力で、家臣の松原佐久と小助川光敦を上洛させて勤王の意思を伝えたのです。
交代寄合とはいえ幕府旗本からの恭順の申し出とあって、新政府も驚いたことでしょう。
さっそく新政府から親敬に奥羽鎮撫使の指揮下に入るよう指示が出されます。
それに応えて、慶應4年2月21日に旧幕府に奥羽鎮撫使の指揮下に入るために領国へ帰還する旨を申請しました。
幕府から許可が出ると、3月に親敬は領国の出羽矢島へと向かったのでした。
親敬、矢島入り
領国の矢島(現在の秋田県由利本庄市の南部)は、鳥海山の北麓にある地域です。
江戸時代を通じて、矢島騒動(延宝5年(1677))という大きな一揆もありましたし、鳥海山噴火(享和元年(1801))などあって領国運営は困難を極めてきました。
しかし、親敬が当主となる直前の安政元年(1854)に先代親道が学校を整備したことなどが支持されて、領民は新しくやって来た若い領主におおむね好意的だったようです。
矢島に入った親敬はさっそく奥羽鎮撫使に書状で指揮下に入る申し出を行い、許されました。
この時、指揮下に入ると同時に将来の諸侯列(大名)への昇格の内諾を得たというのですから、親敬もなかなかのやり手です。
悲願だった列侯昇格の内諾を得た親敬の奥羽鎮撫にかける意気込みは相当なものだったに違いありません。
秋田戦争開戦
奥羽越列藩同盟の成立と久保田藩の離脱によって、久保田藩の周りはすべて敵という恐ろしい状況となるなか、着々と開戦準備が進んでいきます。
久保田藩領には東および南東方向から仙台藩を主力とする部隊、北東からは南部藩、そして南からは庄内藩の攻撃が予想されましたので、それに備えて部隊が配置されました。
なかでも久保田藩からの戦いは庄内藩の追討が主目的でしたので、薩摩・長州などからなる主力を南部に置きました。
こうして生駒親敬の矢島勢を含む由利郡の諸藩は、庄内藩の需要拠点である酒田攻略を目指す軍勢に編入されて来るべき侵攻作戦に備えます。
そしてついに4月には仙台に赴任した鎮撫総督九条道孝から秋田の諸藩に庄内追討の命が出されます。
追討令を受けて、はやくも4月19日には庄内に通じる交通の要衝・三崎峠から久保田藩を中心とする秋田の諸藩からなる軍勢が庄内藩への侵攻作戦を開始したのです。
そして生駒親敬と矢島勢もこの軍の中にありました。
しかし、なんと各部隊の連絡がうまくゆかず、全くバラバラになってしまったので戦果を挙げる間もなく作戦は失敗、すぐさま引き上げることになってしまいます。
そして慶應4年(1868)7月8日、今度は親敬は庄内攻めの先導役を命じられたのでした。
そんな中、領国の矢島で来るべき軍事作戦へ備えている間に、突然事態は大きく動きます。
7月10日、薩摩・長州・土佐・佐賀の連合は院内から新庄藩へ奇襲をかけて、新庄を占領する大きな戦果を挙げることに成功。
ところが庄内藩の猛将酒井吉之丞の反撃を受けると官軍は総崩れとなって撤退に次ぐ撤退を重ね、湯沢、横手などの重要拠点を次々と失tってしまいます。
ついにはじまった秋田戦争では、官軍が大苦戦を強いられるという思わぬ展開となりました。
そして戦火はいよいよ親敬の領国矢島に迫ります。
次回では矢島の戦いを見てみましょう。
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