前回は大成功した蔦重のビジネスのうち、吉原細見についてみてきました。
今回は蔦重のもう一つの成功についてみていきたいと思います。
それは狂歌絵本と錦絵です。
前にも見たように、蔦重は才能を見出す点においても天才的でした。
例を挙げると、狂歌師・戯作者では、大田南畝(蜀山人)、恋川春町、山東京伝、十返舎一九、曲亭(滝沢)馬琴など、浮世絵師では喜多川歌麿、葛飾北斎、東洲斎写楽など、相当な数に上っています。
しかしこの頃、彼らはそれぞれの仕事で糧を得るのが難しい環境でもありました。
そこで、蔦重は見出した才能を守るため、自宅で生活の面倒を見たのです。
具体的には、戯作者の十返舎一九、曲亭(滝沢)馬琴、浮世絵師の喜多川歌麿などが一時蔦重の家に寄寓しています。
こうして才能ある人の生活を担保した後、蔦重は彼らに積極的に仕事を与えていったのです。
山東京伝の作品はその大半が蔦屋の出版ですし、東洲斎写楽にいたっては全作品が蔦屋の手によるものです。
さらに、廉価版を出さず、きらら摺りなどを多用して積極的に彼らの作品を豪華版にして出版していることには驚くほかありません。
こうして、売り込みをねらっている作者の新作を出版するときは、なにより他の版元がまねできないようなものを出版するのに徹底的にこだわったのです。
つまり、蔦重はオンリーワンの作品にとことんこだわっていたのでした。
先の東洲斎写楽の最初のシリーズは雲母摺の大判ですし、狂歌絵本類も豪華版を次々に出版しています。
これはなにより、新人たちに一流のアーティストと組んで仕事をさせることで、新人たちの名を売ると同時に一流の仕事から学ぶ機会を作るという一石二鳥を狙ったものでした。
例えば、政演の『狂歌五十人首』、歌麿の『絵本虫撰』『汐干のつと』『狂月望』『百千鳥狂歌合』『銀世界』など、他の出版社が企画できないような豪華本を次々と出版していき、これがまた田沼時代の開放的な気風とあいまって大成功を納めます。
なかには、当時としては驚異的な発行部数が一万部を超える作品まで出てきたのです。
ここで蔦重の狂歌絵本と錦絵でのやり方を整理してみましょう。
➀才能の発掘に努める。
②見出した才能ある人の生活を保障する。
③その人が作品を発表する機会を積極的に作る。
④彼らが一流アーティストと一緒に仕事する機会を作る。
ここまで見ると、蔦重によって見いだされ育てられた才能がいかに多いか、またその方法がいかに合理的なものかがよく分かります。
こうして狂歌の一大ブームを巻き起こした蔦重ですが、皮肉にも今度はそのことが彼を苦しめることになります。
寛政3年(1791)に刊行した山東京伝の洒落本『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹麗』が幕府の忌諱に触れて蔦屋は財産の半分を没収され、京伝は50日間の手鎖の刑という厳罰が下されたのでした。
これは、松平定信による寛政の改革(天明7年(1787)~寛政5年(1793))が行われる中で、当時の出版物には幕府に批判的内容が多いこともありますが、見せしめ的要素が極めて強い処罰であったと考えてよいでしょう。
このことから逆に、見せしめになるほど、蔦重のビジネスが成功し注目を集めていた、という証拠でもあります。
この弾圧により、狂歌ブームは収束、狂歌の帝王・大田南畝(蜀山人)の引退(後に復帰)などが重なって蔦重の出版物の人気が急速に衰えてしまいます。
また、田沼意次時代の自由な気風の申し子的存在だった蔦重には松平定信の徹底した緊縮政策は息苦しいものだったに違いありません。
蔦重は処罰の五年後にあたる寛政8年(1796)からは病気がちとなり、その翌年にあたる寛政9年(1797)5月6日、わずか齢48で病没してしまいます。
蔦重の死は、彼に世話になった多くの芸術家たちに暗い影を落とすほどでした。
例えば、蔦重によって世に出された喜多川歌麿は、彼の死のショックで作風が変わったといわれています。
ここまで大成功した蔦重のビジネスと、あまりにも急だった彼の死について見てきました。
次回では蔦重が現在に遺した遺産についてみていきたいと思います。
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