集団疎開と東京大空襲(柳北小学校 その10)

前回、校長毒殺事件という困難を乗り越えた柳北小学校ですが、このあと困難な時代に突入していきます。

そこで今回は、第二次大戦下の柳北小学校をみていきましょう。

柳北小学校創立六十年記念式典

柳北小学校は、昭和11年(1936)10月21日に創立六十周年を迎えて記念祝賀式典を挙行しました。

また、記念事業として屋上に柳北神社を奉祀し盛大な祝典を挙げ、表彰式記念展覧会などを催したのです。

こうした中でも、戦争の時代はますます近づいて、昭和16年(1941)1月16日には来るべき米英戦に備えて全国の児童を組織化する目的で大日本青年団が設立されると、ただちに柳北小学校でも柳北少年団が結成されました。

さらに、4月1日に東京府東京市柳北国民学校と校名を変更すると、12月8日には日米が開戦する事態となってしまいます。

昭和19年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、8911‐C2-88〔部分〕) の画像。
【昭和19年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、8911‐C2-88〔部分〕)  画面中央が柳北小学校、右下が浅草橋駅。瓦葺木造家屋がびっしりと立ち並んでいるのがわかります。】

戦時色を増す学校

昭和17年(1942)4月18日には東京がはじめて米軍の空襲を受けるものの、戦時下最後の修学旅行を実施しますし、昭和18年(1943)6月8日には小島国民学校で行われた浅草区相撲大会で、柳北生徒が優勝から三等までを独占するなど、戦争中とはいえ、まだまだ学校生活を楽しむ余裕が残っていたようです。

そして、7月1日に東京都が設けられたことで東京都柳北国民学校と校名を変更。

昭和19年(1944)1月には学校給食開始され、内容はみそ汁一ぱいというものでご飯は各自持参でしたが、4月からは学校給食に米飯つくようになりました。

授業の内容にも大きな変化があって、建国体操や剣道・なぎなたなど、体練科が強化され、まさに学校が軍事教育の場と化していったのです。

集団疎開

そして、空襲の脅威が現実的となってきたために、防火兼用プールの建設作業がはじまるとともに、8月12日には3年以上735名が宮城県遠刈田温泉へ集団疎開が行われることになり、柳北小学校から出発したのです。

遠刈田温泉に疎開したのは、千束小学校と育英小学校、そして柳北小学校の三校。

静かな湯治場に突然大勢の小学生がやって来ることになりました。

疎開先では食糧事情・衛生環境とも恵まれず、中にはケガがもとでなくなる児童もいたりと、彌元から離れたさみしさも相まって、「こんな筈ではなかった」と感じた児童も多かったようです。

学童集団疎開(Wikipediaより20210807ダウンロード)の画像。
【学童集団疎開(Wikipediaより)】

遠刈田の人々との交流

ひもじいお腹を抱えた私たちは、随分わるいこともしたが、土地の人々は比較的寛大だった、いや寧ろ好意さえ示してくれた」(『柳北百年』)といいます。

また、『柳北百年』には、この厳しい時代をともに乗り切ろうとする優しさを感じる逸話が多く載せられていますので、ちょっと見てみましょう。

「悪童が栗を盗んで見つかり、叱られるかと思えば、裸足で作業する自分たちがまき散らした栗のイガでケガするからかたずけろ、と声をかけられた」

「干し柿を盗む悪童があったが、先生方に言いつけられることがなかった」

「常時食糧不足にある子供たちのために、先生方が買い出しに出ると、自分たちの乏しい貯えから芋や麦を安くで分けてくれた」

こうした集団疎開は、およそ1年3か月にわたって続くことになったのです。

子供たちの帰還

終戦を迎えても都内の食糧事情や治安状況から集団疎開は継続されて、子供たちが親元に帰れてのは、昭和20年(1945)11月5日のこと。

集団疎開先の遠刈田から深見校長以下職員21名、児童530名の全員が引き揚げたのです。

その後も柳北小学校卒業生と遠刈田の関係は続きます。

集団疎開から28年後のこと、昭和47年(1972)8月26日には「28年目の修学旅行」としてかつて集団疎開した児童や関係者が集団疎開先の宮城県遠刈田温泉を訪問する行事が行われました。

これには、地元の遠刈田も町をあげての歓迎で迎えたといいます。

この時の参加者が140名といいますから、児童たちにとっても集団疎開時の感謝の思いが強かったのでしょう。

空襲で炎上する東京(USAAF_photo_of_Tokyo_after_the_10_March_air_raid、Wikipediaより20210807ダウンロード)の画像。
【空襲で炎上する東京(USAAF_photo_of_Tokyo_after_the_10_March_air_raid、Wikipediaより)】

東京大空襲

少し時間を戻しまして。

昭和20年(1945)3月9日に疎開児童6年生が進学のために帰京することになりました。

遠刈田の人々は、空襲の激しい東京へ向かうことを止めましたが、東京に戻らなければ進学がおぼつかない状況にあって、やむにやまれぬ帰郷となったのです。

しかし、帰郷したまさにその夜、東京大空襲があって、児童のうち3名が命を落とすこととなりました。

大空襲では、柳北小学校の周囲にも焼夷弾が降り注ぎましたが、地元の「向柳原南町会」、現在の「浅四町会」の人々を中心に、警備団と職員が「柳北を燃やすな!」をスローガンに一致団結してこの焼夷弾の炎を命がけで一つずつ消して、柳北小学校の校舎を守ったのです。

3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(Wikipediaより20210807ダウンロード)の画像。
【3月10日未明空襲後の浅草松屋屋上から見た仲見世とその周辺(Wikipediaより)】

柳北小学校の終戦

こうして焼けずに残った柳北小学校は、避難民であふれかえり、食料も乏しい状況でしたが、そのあとも空襲が続いたといいます。

このような状況でしたので、3月14日には学校授業一か年停止が決められて、3月25日に予定されていた卒業式中止となって行われませんでした。

こうしたなか、ついに昭和20年(1945)8月15日に終戦を迎えます。

昭和22年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、USA‐M698-95〔部分〕)
【昭和22年撮影柳北小学校付近空中写真(国土地理院Webサイトより、USA‐M698-95〔部分〕)画面右上、柳北小学校北西側が消失を免れた街区で、白っぽい空き地の多い部分は空襲により焼失した街区です。柳北小学校の校舎が境になっているのがよくわかります。】

ここまで地域住民がまさに命がけで柳北小学校を守り抜いた姿をみてきました。

しかし、東京は一面焼け野原、そこから復興が始まります。

次回は、戦後復興期の教育改革に貢献した柳北小学校の姿をみていくことにしましょう。

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