『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』を観てきました!
「煉獄さんカッコいい!」とか「伊之助意外とイイやつ!」とか、いろんな声が飛び交う劇場はほぼ満員、みんな作品に大興奮。
しかし私にはどうしても気になってしまう疑問が残ったのです。
それは、鬼殺隊の少年少女が命を懸けて戦う相手の鬼って何なのでしょうか?
桃太郎に出てくる鬼と同じもの? 地獄にいるという鬼とおなじもの?
こうした疑問が次々と広がってくるのです。
そこで今回は、鬼とはいったい何なのかを調べて考えてみることにしたのです。
その途中、偶然にも『鬼滅の刃』に隠された秘密をいくつか解き明かすことが出来ました。
そして最後には、鬼が、人の力ではどうしようもない不安や不満、恐怖といったマイナスのエネルギーがもととなって作られていると分かったのです。
つまり、鬼殺隊の少年剣士たちは、命を懸けて「鬼」という名の人間界の悲哀と闇を映し出した存在と戦っている、ということになります。
今日、私たちは、大きな社会変動の波とコロナ禍のなかで、時代の変化にのみこまれてしまいそうに感じませんか?
そんな中、私たちが大きな不安や不満、恐怖を抱いているのは言うまでもない事実、いうなれば「鬼」を前にして立ちすくんでいるといっていいのかもしれません。
ひょっとすると、心のどこかで鬼殺隊の剣士たちがこの「鬼」を倒してくれることを切望しているのかもしれませんし、自分自身を剣士たちの姿に重ねてみているのかもしれません。
そうです、私たちはまさに鬼殺隊の若者たちとともに、「心を燃やして」時代の荒波を切り開こうとしているのです!
だからこそ、『鬼滅の刃』はみんなの心に響くのでしょう。
鬼ってなに?という疑問を解き明かすために、まずは鬼の歴史をたどってみることから始めてみたいと思います。
鬼とは「人に危害を加える空想上の怪物や妖怪変化」(『日本史大事典』)、「恐ろしい容貌をして変化自在な怪力をもつと信じられている怪物」(『日本歴史大辞典』)で、「裸体に虎の褌をつけており、姿は人に似ているが、肌の色が赤や青や黒などで、頭に角が生え、口・鼻・眼などが特に大きく、鋭い牙を持っている」(『国史大辞典』)といったイメージでしょうか。
そんな鬼が文献に初めて登場するのは、『出雲風土記』大原郡阿用郷条にある一つ目の鬼が田を作る男を食った伝承です。
しかし、『出雲風土記』の鬼は例外的存在で、多くの場合は『日本書紀』斉明天皇崩御の条にある山上に鬼がいて大笠を著け、天皇の葬儀を眺めていたという記事に代表されるように、この頃は人に目に触れることのない存在でした。
このため、「オニという國語は隠(オン)という字音から導かれた」(『民俗学事典』)というくらい形のはっきりしない存在だったのです。
このような目に見えない鬼は、「もの」「もののけ」と同じようなものとみられていたようで、「日本霊異記」や「三代実録」など多くの文献に登場しています。
これに陰陽道が発展し、付喪神のイメージも加わったことが、藤原師輔や高藤、小野篁が逢ったという百鬼夜行へとつながっているのでしょう。
このような鬼は、人の近くにあっても危害を加えることはありませんでした。
ここまで見てきた、どこか平和で不思議な存在だった鬼が、平安時代後期から突如として狂暴化します。
これは、仏教が伝来した時に、中国や朝鮮半島にあった鬼の民間信仰も日本に伝えられたことが一因と考えられます。
中国ではもともと、鬼は死者を指していましたが、次第に変化して、陽である神の反対側にある陰もの、悪や不幸、凶事をもたらす存在までもが鬼という言葉に込められたのです。
この影響を受けて、大江山の酒呑童子や羅生門の鬼など、人に害をなす鬼が多く登場してきます。
その典型として「面は朱の色にて円座の如く広くして目一つ有り、長は九尺許りにて手の指三つ有り、爪は五寸許りにて刀の様なり、色は緑青の色にて、目は琥珀の様なり、頭の髪は蓬の如く乱れて、見るに心肝迷ひ、恐ろしきこと限りなし」という『今昔物語』(巻二十七・十三話)の安義橋の鬼のように、姿もはっきり見えるようになるのです。
ところで、『鬼滅の刃』で鬼の首領となっている鬼舞辻無惨が出現した平安時代後期は、まさに鬼の性格が変わって狂暴化した時期にあたっています。
無惨の姿は人と同じですが、その性質を考え合わせると、まさに最適な設定なのです!
しかし、鎌倉時代に入ると次第に仏教における地獄の観念が広がって、鬼のイメージを大きく変わっていくことになります。
地獄の獄卒である鬼たちは、あくまでも地獄の中にある存在で、しかも善男善女に危害を加えることはありません。
それどころか、次第にユーモアさえ湛える性質となって、人々の身近な存在となっていくのです。
このイメージは現在にも強く受け継がれていて、江口夏実『鬼灯の冷徹』はその典型例といってよいでしょう。
このように、現在の鬼はいろいろなイメージの集合したものですから、その性格も多岐にわたっているのです。
ここで鬼について、一度整理してみましょう。
鬼は大いに人の想像力を掻き立てるのか、研究も古くからおこなわれてきました。
折口信夫をはじめ、柳田邦夫、近藤喜博、和歌森太郎、馬場あき子、森活雄など、鬼は多くの研究者が研究対象とした民俗学の重要なテーマだったのです。
ここでは馬場による分類を手掛かりにして進みましょう。(『鬼の研究』、『日本伝奇伝説大事典』)
馬場が示したのは五種類の鬼です。
①祝福に訪れる来先祖の霊魂や地霊。これが日本古来の鬼です。
②山人系や修験道系の鬼、山を住みかとする山姥や天狗もこの中に入ります。
③仏教系の鬼、邪鬼や夜叉、羅刹、地獄の鬼、牛頭鬼や馬頭鬼などで、仏教の因果応報の考え方や地獄のイメージが広がる中でポピュラーになった鬼たちです。
④鈴鹿の鬼や戸隠の鬼のように、みずから人を捨てて鬼になった放逐者や盗賊など。
⑤変身譚系の鬼で、怨恨や憤怒、雪辱など強い負の情念をエネルギーとして、復讐をとげるために鬼となったもののこと。
こうしてみてくると、『鬼滅の刃』における鬼とは、竈門禰豆子と珠世を除いて⑤をベースとして④を加えた存在とみてよいでしょう。
ところで、日本の伝統芸能では「鉄輪の女」や「道成寺の女」など、⑤の鬼がよく登場します。
愛への強い執着や深い憎悪に苦しむ死霊や生霊が鬼に変わったというこの種の話は、古典芸能の能では主要なテーマとなっていますし、歌舞伎や浄瑠璃でもよく見られる題材です。
このような鬼は一方的に退治や排除すべき存在ではなく、鬼の苦しみに共感しつつ慰霊に努めることが大切と考えられてきたのですが、これってまさに竈門炭治郎ですよね!
つまり、鬼を本当に滅するには、炭治郎の持つ鬼の苦しみへの共感とやさしさが必要不可欠なのです。
また、昔話の桃太郎に代表されるように、鬼を一方的に悪に仕立ててそれを退治する勧善懲悪のストーリーが数多く世に送り出されてきました。
しかし、鬼についての民間伝承を見ると、鬼は恐ろしい存在であると同時に幸運をもたらすという両義的な神として祀られる例が多々あるのが事実です。
ですので、鬼を祀る神社は全国に数多くありますし、秋田のナマハゲノのように、人々に祝福をもたらす来訪神とされる例も見られます。
このような鬼の持つ二つの顔、先ほどの馬場の分類の①と⑤は、対になるものなのだとみなされてきたと言ってよいでしょう。
ここで注目したいのが、鬼の持つ両義性、つまり⑤の人を攻撃し害をなすものと、その逆にあたる①の人を護り幸運をもたらすもの、という正反対の二つの性質です。
これってまさに、『鬼滅の刃』における鬼舞辻無惨と竃門禰豆子の関係ではありませんか!
つまり、無惨と禰豆子という正反対の存在がそろってこそ、ようやく完全な鬼になるわけです。
こうしてみると、『鬼滅の刃』でも禰豆子の存在がとても重要なのが分かります。
ここで、これまでの内容をまとめるために、妖怪学の創始者・小松和彦の研究成果を見てみましょう。
小松によると、鬼は「たましいがいだく怒り、恨み、妬みといった念」から生じる邪気から生み出されたものであり、「日本人が描く「人間」概念の否定形、つまりは反社会的・反道徳的「人間」として造形されたもの」で人間社会の破壊者であり、「人間社会の悪・災厄の象徴」です。
さらに鬼は、「邪悪なものを象徴する記号として、今もなお生き続けているのである。」(小松和彦『酒呑童子の首』、『悪霊論-異界からのメッセージ-』)
小松の研究成果を言い換えるなら、人の持つ負のエネルギーから生まれた鬼は、人間社会の悪や不幸、凶事が形となったものと言えます。
つまり鬼は、人の力ではどうしようもない不安や、怒り・恨み・妬みなどの不満、不安や無知から来る恐怖がもととなって作られているのです。
鬼というのは人間界の悲哀と闇を映し出した存在であることがわかりました。
ここまで鬼とは何か、について調べ考えてきました。
そこで、分かったことをおさらいしましょう。
❶鬼舞辻無惨が出現した時期や性質の設定が素晴らしいこと。
平安時代後期は、まさに鬼の性格が変わって狂暴化した時期にあたっていました。
❷鬼を滅するには、炭治郎の持つ鬼の苦しみへの共感とやさしさが必要不可欠だということ。
鬼は一方的に退治すべき存在ではなく、鬼の苦しみに共感しつつ慰霊に努めることが大切なのです。
❸鬼には人を攻撃し害をなすものと、その逆にあたる人を護り幸運をもたらすもの、という正反対の二つの顔がありますが、それぞれを鬼舞辻無惨と竃門禰豆子が象徴しているということ。
つまり、無惨と禰豆子という正反対の存在がそろってこそ、ようやく完全な鬼になるわけで、禰豆子の存在がとても重要なのが分かりました。
❹鬼が、人の力ではどうしようもない不安や、怒り・恨み・妬みなどの不満、不安や、無知から来る恐怖がもととなって作られていて、これと鬼殺隊の少年剣士たちは、命を懸けて戦っているということ。
私は一介の主夫ですが、娘たちに強く勧められて『鬼滅の刃』1~7巻を読み、『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』を観に行きました。
そこで煉獄杏寿郎のことばに胸を熱くし、鬼殺隊の少年剣士たちの命を懸けた魂の戦いに涙したのです。
現在、『鬼滅の刃』は社会現象ともいえるブームを巻き起こし、その魅力はマスコミなどでも盛んに喧伝されています。
そして、鬼殺隊の剣士たちの友情、師弟愛、家族愛と兄弟愛、勝者敗者それぞれが背負う歴史、心に残る言葉の数々などなど、どれをとっても少年ジャンプをはじめとする少年マンガが営々として築いてきた成果を見事に継承しているのは言うまでもありません。
しかし、この新型コロナ禍の中で、人々があえて密集を避けることなくリスクを冒してまで劇場に足を運ぶからには、もっと違った魅力があるはずだと私は考えました。
そこで、「鬼」という言葉を手がかりとして、私なりに『鬼滅の刃』の魅力を掘り下げてみたところです。
最後になりましたが、作者の吾峠呼世晴先生に、ち密に構築された物語の骨格や、考え抜かれた物語のすばらしさへ心からの賛辞を贈らせていただきたいと思います。
この文章を執筆するにあたって、以下の文献を引用・参照しました。
また、文中では敬称を略させていただきましたことを申し添えます。
引用文献:『民俗学辞典』民俗学研究所編(1951初版・1973再版、東京堂出版)、
『日本歴史大辞典 第2巻』日本歴史大辞典編集委員会編(1975、河出書房新社)
『国史大辞典 第二巻』国史大辞典編集委員会編(1980、吉川弘文館)、
『日本伝奇伝説大事典』乾克己・小池正胤ほか編(1986、角川書店)、
『鬼の研究』馬場あき子(1988、ちくま文庫)
『日本史大事典』下中弘編(1992、平凡社)、
『新日本古典文学大系37 今昔物語集 三』森正人校注(1996、岩波書店)
『酒呑童子の首』小松和彦(1997、せりか書房)
『悪霊論-異界からのメッセージ-』小松和彦(1997、ちくま学芸文庫)
参考文献: 『日本民俗大事典 上』福田アジオ・新谷尚紀ほか編(1999、吉川弘文館)、
『日本説話伝説大事典』志村有弘・諏訪春雄編(2000、勉誠出版)、
『日本怪異妖怪大事典』小松和彦監修、小松和彦・常光徹ほか編(2013、東京堂出版
『日本文化事典』神崎宣武・白旗洋三郎・井上章一編(2016、丸善出版)、
『鬼灯の冷徹』江口夏実(2011~2020、講談社)
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