前回みたように、関東大震災からの復興が終わり、昭和7年12月には総武線浅草橋駅が開業して町全体が賑わいを増し、柳北小学校でも子供たちの元気な声が響く平和な日が続いていたときです。
昭和10年(1935)11月21日に校長毒殺事件が勃発して第五代校長・増子菊善先生が急逝しました。
この「浅草雷門の小学校長毒殺事件」は、事件の衝撃的内容から新聞各社がその日の夕刊に五段抜きで速報を伝えるなど、おおいに世人を驚かせ、模倣した事件が跡を絶たないという、わが国の犯罪史に残る事件です。
そこで、この事件の経過を『警視庁史 昭和前編』と『柳北百年』でみていくことにしましょう。
事件の発端
昭和10年(1935)11月21日午前9時30分過ぎのこと、柳北小学校全職員の俸給と当時柳北小学校に併設されていた青年学校職員の俸給を浅草区役所会計課で受け取りに来た増子校長に一本の電話がかかってきました。
校長は2~3分話したあと、会計課で柳北小学校全職員の俸給3,335円と、当時柳北小学校に併設されていた青年学校職員の俸給240円余を受け取って浅草区役所を後にします。
いっぽう、午前10時20分頃、浅草雷門の明治製菓売店喫茶部に27~8歳くらいの絣の袷に同じ羽織を着てロイドの眼鏡をかけた若い男が現れて、紅茶とケーキ二人分を注文しました。
事件発生
数分後に50歳前後の紳士が現れてこの男と向かい合って椅子に掛け、持っていた小風呂敷を机の上に置き、少し話したあと進められて紅茶を一口飲むと、
「ウィスキーが入っているんですか」
「なんだか少しヒリヒリする」
と怪訝な顔をしたので、待っていた男が給仕を読んで
「この紅茶は変だそうだ、すぐ捨てて別のをくれ」
という間に、紳士は立ち上がろうとしたところ、
「ウウン」とうなって膝から崩れ落ちるようにしてばったりと倒れてしまったのです。
若い男は紳士を抱き起して「先生、先生」と呼びながら、
「大変だ、早く柳北小学校に電話をかけてくれ、それからすぐに医者を呼んでくれ」
と騒ぎ立てて、店内は大騒ぎとなりました。
近くの大橋病院から横田医師が駆け付けますが、紳士はすぐに絶命してしまいます。
犯人の逃走
急報をうけて柳北小学校の教員たちが駆けつけてみると、この紳士は同校の増子菊善校長で、ポケットに青年学校職員の俸給が残るものの、小学校職員の俸給がなくなっていることがわかりました。
店内が大騒動となるなか、若い男はいつの間にか姿を消していたのです。
現場検証
事件発生の急報を受けて、所轄の象潟警察署と警視庁捜査第一課・鑑識課が駆けつけて現場の検証が始まります。
増子校長が飲んだという紅茶の受け皿にこぼれていたごく少量の紅茶から青酸カリが検出され、関係者の証言と合わせて増子校長が、事件当日に俸給を受領したことを知ったうえで、喫茶部に誘い込み、紅茶に青酸カリを混入して毒殺し、俸給を奪って逃走したものと判断し、犯人は校長と会っていた若い男を犯人と認定しました。
即日、象潟警察署に捜査本部を開設して捜査を開始します。
事件の捜査
捜査本部は犯人像を以下のように描きました。
当時はまだ、青酸カリが即効性の猛毒であるという事実が一部の者にしか知られておらず、自殺に用いた例はあるものの、これを犯罪に用いた前例はありませんでしたので、
①犯人が業務で青酸カリを使うもの、あるいは薬物に詳しいものである。
また増子校長を呼び出して会談していることから、
②増子校長と顔見知りのものである。
そして、当日が俸給日であることと、校長が直接区役所に出向いて俸給を受け取ることを知っていることから、
③学校または区役所の内部事情に詳しいものである、との3点を認定して捜査方針を決めました。
しかし、対象はいずれも広範囲にわたるために、捜査は極めて難航することが予想されていたのです。
そのため、紅茶を入れたカウンター担当をはじめとする喫茶部のスタッフが厳しい取り調べを受けるのは当然として、増子校長のかつての教え子の中で、前記項目に当てはまる上に不良化している人物を物色したり、当時跋扈していた左翼主義者の犯行を疑うなど、捜査は多方面にわたるものになっていました。
またそのいっぽうで、この当時、日大製殺人事件や六本木警察官内の強盗殺人事件、洲崎警察署管内の強盗殺人事件と3つの事件でそれぞれ捜査本部が置かれる状況でしたので、捜査陣の人員不足にも悩まされていたのです。
事件の報道合戦
事件が青酸カリによる毒殺という新手のものであった上に、小学校長が白昼に衆目の中で毒殺されるという事件の状況、さらに多額の現金が強奪されるといったショッキングな内容から、新聞各紙は競ってこの殺人事件を小段抜きの大見出しで大々的に報道しました。
衝撃的な事件は、市井の耳目を大いに驚かせたのは言うまでもありません。
この激しい報道合戦も、捜査陣へのプレッシャーとなりそうな雲行せす。
増子校長を突如襲った悲劇・日本初の青酸カリによる毒殺事件は、捜査対象が広範にわたるうえに、捜査本部の人員不足もあって、捜査の難航が予想される状況でした。
はたして事件はどのような展開を見せるのでしょうか、後半に続きます。
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