正月も開けてようやく新年気分が抜けた頃、鳥越神社でどんと焼きが盛大に行われます。
ところで、「どんと」って何なのでしょうか?なぜ正月飾りを火事の多い季節に焼くのでしょうか?
こうした疑問を解消すべくどんと焼きの歴史と起源を探っていくと、意外な事実に行き当たりました。
かまくらと左義長、どんと焼きは、同じ起源をもつ行事だったのです!
それでは改めて、どんと焼きの歴史と起源を見ていきたいと思います。
【どんと焼き 目次】①どんと焼きってなに? / ②鳥越神社のどんと焼きに行ってきました
どんと焼きは、宮中行事のさぎちょう(左義長・三毬杖)に由来する行事で、サイト焼き、さんくろう、どんど焼き、ほっけんぎょう、ほちょうじ、オニビ(九州地方)などの様々な名で呼ばれています。
ちなみに、「どんと」や「どんど」というのは囃子詞(はやしことば)から来た名前とされています。
これって、「どんどん燃えろ」という感じなのだと私は思います。
どんと焼きのもとになった左義長は 、陰陽師が関与する宮中行事で、平安時代から記録にみられます。
もともとは、毬打(ぎっちょう)を三つ立てたことからこの名がついたとする説が有力です。
ほかにも中国の故事に由来するとの説があります。
それは、後漢の明帝の時代に仏教と道教の優劣を競うために、それぞれの経典を左右に並べて置いて焼いたところ、左に置いた仏教の経典は燃えなかったという故事、左義長は左の方が優れているという意味に解釈したものです。
そのほかにも、「鷺鳥(さぎちょう)」からきた言葉とする説があるなど、様々な説があるのです。
元来、左義長は小正月の火祭りで、宮中では正月15日と18日に吉書を焼く儀礼でした。
清涼殿の東庭で、青竹を束ねて毬打3個を結び、これに扇子・短冊・吉書などを添えて、謡い囃しつつ焼いたのです。
一例をあげると、『徒然草』にも「左義長は、正月に打ちたる毬打を真言院より神泉苑へ出して焼きあぐるなり」と記されています。
民間に目を転じると、神社のほかに道祖神の祭りとされる地方も多くあるのです。
また実施日も、正月14日または15日を主として、7日に行うところもあるなど、様々なバリエーションが見られます。
いずれの場合でも、長い竹数本を円錐形などに組み立てて、注連縄や松飾りなどの正月飾り、だるま・書初めなどを持ち寄って焼くという内容は共通しています。
その火で焼いた餅を食べたり、灰を体にまぶしたりすれば、年中の病を除く、病気にならない、といわれている場合が多々あります。
また、今も子供組などによって行われているところも多く、子供たちが河原などに丸太と藁で作った小屋で、前夜から米や餅などの飲食を共にして遊び、最後に燃やす地方もあります。
じつは、秋田のかまくらなども左義長行事のひとつなのです。
このように、宮中行事に起源を持つどんと焼きは、地域によって様々な形に変化しつつ、人々の暮らしにしっかりと定着しているのです。
次回では、江戸のころから名高い鳥越神社のどんと焼きを見てみたいと思います。
【どんと焼き 目次】①どんと焼きってなに? / ②鳥越神社のどんと焼きに行ってきました
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