前回見たように、長かった秋田戦争も官軍勝利でようやく終結しました。
そしてついに生駒家の悲願が達成される時がやって来たのです。
矢島藩成立
9月28日、金額は不明ですが、久保田城内で奥羽鎮撫総督府から見舞金を下賜されています。
そして10月に入ると、親敬は矢島に戻って新政府の指示を待っていました。
箱館では榎本武揚らによる抵抗が続いていましたが、明治元年(1868)10月に戊辰戦争の戦後処理がはじまります。
11月に入ると新政府からの要請で東北諸藩の大名たちが上京、11月5日には親敬も期待を胸に矢島を後にして東京へと向かったのでした。
そしてついに戊辰戦争における論功行賞の結果、明治元年(1868)11月30日付で諸侯への昇格が認められ、生駒親敬は従五位下 讃岐守に叙任されます。
ここに、一万五千二百石の矢島藩が誕生したのです。
ついに240年余を経て、寛永17年(1640)の生駒騒動で失った大名家の家格を回復に成功し、ここに生駒家の悲願がついに達成されたのでした。
よく知られる親敬の写真も、この時に浅草大代地の写真館で撮られたもの。
興味深いのは、列侯昇格と同時に生駒家が矢島に開いていた学校を藩校に昇格させる申請が認められたことです。
さらに戊辰戦争における親敬の功績が評価されて、賞典禄1,000石が与えられることになりました。
これは小松帯刀(薩摩藩)、板垣退助(土佐藩)、後藤象二郎(土佐藩)らと同額となっています。
こうして12月5日に新政府から帰国許可が出ると、未来への希望を胸に親敬は矢島へと戻ったのでした。
矢島の復興
矢島に戻った親敬がまず取り組んだのが、陣屋と藩校の整備です。
もともと日新堂と名付けられた学校は、陣屋大手前厩長屋の中に開かれていたのですが、矢島の戦いで親敬が撤退時に陣屋に火をかけた結果、学校も消失してしまっていたのです。
同時に戦争では矢島の町も半分以上が焼けてしまい、大きな被害を被っています(③話参照)。
矢島藩が成立した際に藩校の設立が認められていましたので、親敬は復興の手始めに日新道の整備と矢島の町の復興から着手したのです。
そしてもちろん、矢島藩内の論功行賞も行っています。
矢島兵を率いて戦い負傷した松原佐久に50石、江美夫人と娘を守った小野元佳に50石など、功のあった家臣に自分の賞典禄を分け与えています。
家臣から「新政府が親敬へ与える賞典禄1,000石は、戊辰戦争における矢島藩の戦功に対して与えられたものなのだから、藩のために使うべき」との意見があり、親敬もこれに同意して用途はのちに決めることとしたようです。
後に、親敬はこの時の約束を忘れず、大きく状況が変わったにもかかわらず約束を果たしています。(⑥話参照)
いよいよ始まった親敬の藩政、しかし事態は思いもしなかった方向へと激しく変化していきます。
次回では、その後の親敬を襲った過酷な運命を見ていきたいと思います。
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