生駒家宅地跡
前回は江戸時代の生駒家屋敷跡を歩いてみました。
今度は明治政府から生駒家が拝領した追加の宅地跡を見てみましょう。
この場所は江戸時代には伊勢・津藩藤堂家の下屋敷だった場所です。
藤堂家の下屋敷は、久保田(秋田)藩佐竹家下屋敷(現在の佐竹商店街付近)と共に、地域でもかなり大きな屋敷でしたので、地域の目印となるほどよく知られた場所でした。
生駒家は廃藩置県の際に、江戸時代からの藩邸の土地に加えて、この藤堂家の屋敷を明治政府から拝領したのです。
石高が一万五千石の極小大名で、男爵に叙爵された生駒家に近い家格の華族の屋敷と比べると、やはりかなり大きい宅地といえるでしょう。
これは明治政府から親敬への隠れた恩賞のような意味合いがあったのかもしれません。
そして生駒家の邸宅と宅地を総合すると、前回見た矢島藩邸よりはるかに大きく、生駒騒動前の生駒家中屋敷とほぼ同じ範囲の東西におよそ150m、南北およそ200mとなっています。
しかし、その北部は明治初め(おそらくは親敬死去(⑥話参照)に伴う相続で)売却しています。
生駒家宅地
明治時代、生駒家はこの新たに拝領した屋敷地を整理して、矢島藩邸(生駒家旗本屋敷)の藩邸だった土地のうち300坪に自分たちの屋敷を構え、そのほかの部分は拝領地と合わせて宅地として借家を建てて経営していました。
その面積は、屋敷地の北端部と南端部を売り払っているものの、1926年時点で4,979坪と、広大な面積を誇っていて、おそらく200軒ほどの借家が建てられていたと思われます。
しかも注目すべきことに、明治25年(1892)になると、すぐ近くに市村座が移転してきたのです。
それからは町が繁華街へと変化し、大変な賑わいを見せることになりました。
いわゆる「二長町時代」が到来し、歌舞伎の全盛時代となったのです。
そういう訳で、このころの生駒家の家賃収入は相当な額になったことでしょう。
生駒家拝領屋敷を巡る
引き続いてかつて生駒家の借家が並んでいた一角を歩いてみましょう。
よく見ると、この町のそこここに行き止まりの細い道があることに気づきます。
町外の大通りにつながっていなかったり、あるいは片方だけつながっていたりする道で、それはまるで歩く阿弥陀くじ。
じつはこれらの道、生駒家の宅地内を区画していた道の名残なのです。
つまり、宅地の端まで行ったところで道は、かつては塀などがあって行き止まりでした。
逆に言うと、この不自然な行き止まりの道が分布する範囲こそがかつての生駒家の宅地だとも言えます。
こうしたことを踏まえて改めて現在の町を見直すと、生駒家宅地がいかに広大か実感できますね。
この生駒家の宅地は、おそらくは藩主死去に伴う相続のために少しずつ切り売りされていきますが、多くの部分が維持されていました。
末広会商店街
そして現在、かつての生駒家宅地の北側縁部分を商店街が通っているのです。
すごい、商店街まであるなんて、生駒家宅地はもう一つの町なのだ、と驚いたのですが・・・。
この商店街の名称は「末広会商店街」、レンガ敷きの道がある商店街として知られています。
東京大空襲で焼けなかったこともあり、古い時代の痕跡がそこここに残る味わい深い商店街なので、銅板張りの商店も残っています。
このようにどこか懐かしい感じがする末広商店街ですが、その始まりは関東大震災からの復興時。
実はこの辺りは関東大震災(1923)で一面の焼け野原となってしまっています。
そしてその時に、苦労して作り上げた生駒家宅地(⑦話参照)も灰燼と化し、ついには手放すことになったのでした。
現在はJR山手線に近いこともあってマンションに侵食されていますが、まだまだかつての下町風情が随所に残っています。
名優伊東四朗さんもこのあたりの生まれといいますから、まだまだこの町が育んできた独自の文化は健在なようです。
生駒家宅地の名残
ここまで江戸時代と明治時代の生駒家屋敷跡を見てきました。
一見すると何も残っていないように見えますが、神社や町割りにその痕跡を見ることが出来、かつての様子がうかがえたのではないでしょうか。
そして私が何より感銘を受けたのが、今この町で生きる人たちも、町の記憶を大切に守っておられるところです。
ここはぜひともみなさんに実際に町を歩いて、生駒家の苦難の歴史を偲んでほしいと願っています。
参考文献:『下谷と上野』玉林繁(東台社、1932)、『下谷区史』東京市下谷区役所1935、『商店名鑑‛84』台東区商店街連合会、1984
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