前回見てきたように、次々と藩主が夭折するなかで幕末を迎えた柏原藩。
ここで新しく藩主の座に就いたのが織田信親でした。
彼はこの激動の時代をいかにして乗り切ったのでしょうか?
信親の藩政
信親は備中国成羽藩主山崎治正の次男として嘉永3年(1850)12月25日生まれました。
慶応元年(1865)十月、若干16歳で家督を継いで従五位下出雲守に叙任されたのです。
新しい藩主が養子で年若く、しかも次々と藩主が夭折して交代した後といういかにも藩政が混乱しそうなパターンになっってしまっています。
しかし、十一代信貞が招聘した藩儒小島省斎が素晴らしい働きでしっかりと藩内を平静に保って藩政をうまく治めたうえに、若き藩主の教育にも努めたのです。
さらには省斎の弟子である藩の執政津田要、側用人田辺輝実らが率先して勤王を唱えて藩を一藩勤王にまとめ上げることに成功すると、その勢いで藩政の改革を断行しました。
慶応3年(1867)5月には旋線(ライフル)銃110挺を購入、安政2年(1855)に採用した山鹿流兵制を改めて、但馬国大鳥貞恭から和蘭陀(オランダ)式を伝習して軍制を刷新します。(『柏原町志』)
こうしてしっかりと藩内を固めたうえで、親敬は来るべき時代に備えたのでした。
この段階で早くも一藩勤王を標榜し、近畿中国の魁とならんという意気込みだったのです。
大政奉還
そしてついに慶應3年(1867)10月14日に将軍徳川慶喜が突然、朝廷に大政奉還します。
大政奉還の一報を聞いた執政津田要は藩主の上洛を進言します。
すると藩主信親は、これに即座に反応します。
この時、信親は江戸に在府していましたが、用人田辺輝美に工作させて、幕府の禁を犯して無届で江戸を出発、上洛を強行したのでした。
そして信親は上洛すると、さっそく12月8日に朝廷から白川口守備を命ぜられたのです。
いち早く上洛した親敬と柏原藩は、朝廷から厚い信任を得た一方で、いまだ東日本を中心に残る佐幕派からは強い反発が生まれていました。
このような状況でしたので、慶應3年(1867)12月25日、薩摩藩邸焼討事件に関連して、江戸市中警護の庄内藩兵から柏原藩の江戸藩邸が砲撃を受ける事態となってしまいます。
それでも信親と柏原藩の尊王の心が揺らぐことはありません。
鳥羽伏見の戦い
年が明けてついに慶應4年(1868)1月、鳥羽伏見で幕府と新政府の戦いが勃発します。
この戦いの直前に信親が朝廷に召されると、藩主自ら病気をおして藩兵を率いて参陣しました。
上洛すると時を置かず、公卿門・東久世通禧邸・坂本口の守備を命ぜられて幕府軍の襲来に備えます。
幸い、直接幕府軍が御所に攻め込む事態とはなりませんでしたので、相手の隙をついて1月3日、薩摩藩兵と共同して会津藩火薬製造所を占領する大きな戦果をあげました。
山陰鎮撫
徳川慶喜が江戸に逃れて京都での新政府の勝利が確定すると、今度は各地に残る佐幕派の鎮撫が大きな課題となります。
そこで、東海道方面の鎮撫に熾仁親王、山陰方面の鎮撫に西園寺公望公がそれぞれ派遣されることになります。
当初は東海道鎮撫の先鋒を打診されるという光栄に浴したのですが、そこは小藩の悲しさ、柏原藩は兵力が不足しているために先鋒を辞退せざるを得ませんでした。
そして、そのかわりとして柏原藩は山陰道鎮撫総督西園寺公望の従兵を命ぜられ、執政津田要が藩兵70人を率いての従軍です。
当初、幕府の親藩や譜代藩を中心に佐幕側の強かった山陰地方でしたが、柏原家家臣たちの働きもあって次々と恭順し、幸いにも大きな戦争に発展することなく鎮撫することに成功しました。
新政府と幕府勢力との戦いでは、柏原藩は藩の総力を挙げて勤皇に努め、大藩に伍するかの見事な働きを見せます。
ここまで見事な働きを見せる柏原藩。
次回では、その後の柏原藩と織田家についてみていきたいと思います。
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