前回までみてきたように、柏原藩は小藩とはいえ、その働きは見事なものでした。
今回では、その後の柏原藩と織田家についてみていきたいと思います。
東京奠都
江戸の名が東京に改められると、慶応から明治に改元されます。
いまだ戊辰戦争が続いていましたが、新政府による新しい国づくりが着々と進められていきました。
その一環として、実質的に遷都となる明治天皇の東京行幸が行われます。
明治元年(1868)4月、天皇が京都へ環幸する際には新政府からの要請に従ってあり信親もこれに従っています。
その後、再度の天皇東京行幸の際には新政府の要望があり、京都と近江国大津との境にある逢坂山で警護につきました。
そして再び天皇が京都に帰ることはなく、東京が日本の首都に定まったのです。
版籍奉還
その後も新政府による中央集権国家建設は間断なく行われていきます。
明治2年(1869)1月20日、明治維新を主導した長州、薩摩、土佐、肥前の藩主が連署して天皇に封土と領民を返還する建白を行いました。
すると、全国の諸侯もこれに倣って続々と建白を提出して続きます。
これらの建白を受けて明治政府は6月に奉還聴許を決定、ここに版籍奉還が行われたのでした。
これによって柏原藩でも6月に版籍奉還し、信親は柏原藩知事に任ぜられます。
廃藩置県
明治4年(1871)7月には廃藩置県が断行されました。
ここに織田信休が入国した延宝6年(1678)以来、200年ちかく続いてきた柏原藩はあっけなく消滅したのです。
ちなみに柏原県ははやくも11月2日に廃県となり、豊岡県に統合されています。
そして廃藩置県直前には全国の知藩事が東京に集められたのです。
このとき信親が拝領したのが浅草区小島町二十四番地で、この場所はかつての越後国三日市藩柳沢家の上屋敷の東部分でした。
信親の柏原帰国
ところがWikipediaなどの記事によると、10月15日、信親が旧領柏原において農業に従事することを願う帰農届が承認されて信親は柏原へ帰還したとしています。
おそらくこれは実際に農業がしたいからではなくて、かつての領国・柏原で暮らすのが目的だったのではないかと推測できるので、信親なら十分ありうる行動ではないでしょうか。
ひょっとすると、東京での華美な生活が性に合わなかったのが原因かもしれません。
こうした中、明治6年(1873年)2月4日、柏原の邸宅が全焼してしまいます。
柏原で暮らす望みが絶たれた信親は、再び東京・小島の邸宅に戻るほかありませんでした。
再びの上京
東京に戻った信親は、明治9年(1876)以降 宮中侍侯となったあと華族部長局二等弁事などにつくものの、いずれも長続きしませんでした。
明治12年(1879)ころには、小島の屋敷を処分して芝区西ノ久保巴町24番地に屋敷地を変えています。
明治15年(1882)、宮内省に出仕するものの、華族局勤務、宮内省庶務課とやはり長続きしていません。
さらに明治17年(1884)に子爵を授けられると、宮内省に再度出仕、所属を転々とかわりつつ明治23年(1890)宮内省主猟官に着任しています。
この職はたいそう気に入ったと述べている(『現代氷上郡人物史』)とおり終生の職となり、大正10年(1921年)、高齢を理由に辞職するまで長くとどまることとなりました。
ところで、宮内省主猟官を『明治職官沿革表 歴官等俸給及定員表』(内閣記録局、明治19~27年)でみてみると、この職は「名誉職」で無給、定員15名となっています。
幕末の活躍とは対照的に、廃藩置県の後にはほとんど事績が見えないなかで織田信親は昭和2年(1927)10月30日に78歳で没しました。
信親の没後、昭和2年12月18日に明治21年埋まれの長男・信大(のぶひろ)が襲爵。
その後、織田子爵家は終戦後の日本国憲法発布によって廃爵となり、そして信大は昭和39年に没しています。
ここまで織田信親と織田子爵家の歴史を見てきました。
次回では少し視点を変えて織田信親の人物像を探ってみたいと思います。
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