前回見たように、新政府からようやく許された松平(久松)家、松平勝成が再度藩主についたのでした。
版籍奉還
そんな中、明治2年(1869)1月20日に薩摩、長州、土佐、肥前の四藩主が版籍奉還(藩の支配権を返納すること)を朝廷に申し出ます。
これを受けて、勝成は2月8日に四藩に続いて版籍奉還を願い出ました。
そこにはもちろん政府のご機嫌を取るのが最大の目的ですが、ほかにも理由があったのです。
それは前にみたようにもともと藩財政が悪化していたところに15万両の献金が追い打ちをかけて、藩の財政は崩壊状態になっていました(⑥話参照)
そんなわけで、財政問題が霧散するという松山藩にとって版籍奉還はラッキーなものだったのです。
そしてようやくここまでの努力が実って、ついに明治2年3月6日、定昭が蟄居御免となり、11月12日には従五位に任ぜられました(⑥話参照)。
これは、松山藩は新政府から全面的に許されたことを意味していたのです。
さらに、明治2年6月18日、版籍奉還を聴許されて松山藩知事に任命され、華族と官位は従前の通りというちょっと意外な温情処置が下されます。
明治4年2月1日に勝成が隠居を許可されて定昭が藩知事となったのでした。
ここでようやく明治維新前の状態に戻ったわけで、勝成も肩の荷を下ろした心持だったに違いありません。
廃藩置県
明治4年2月1日に定昭が藩知事となるのですが、そのわずか5か月後の7月14日に廃藩置県が行われて、松山藩が消滅しました。
廃藩置県に際して藩知事(旧藩主)は東京に召集されたので、定昭も三田の藩邸に入りました。
廃藩置県で大名家の江戸屋敷はすべて政府に返還し、あらたに屋敷を拝領するのですが、松山藩は三田の上屋敷をそのまま拝領できたのです。
そして明治5年4月、三田の藩邸を売却して日本橋区浜町水野忠啓(紀伊新宮藩、慶応元年に死去しているので、この時の当主は忠幹(ただもと)とみられる)の邸宅を購入して移っています。
この引っ越しは、定昭が病気になったために療養によいとされていた隅田川に近い浜町に移ったのです。
このときの浜町邸宅は3,025.32坪の広大なもので、大正初めの地価が43,867.14円(『東京市及接続郡部 地籍台帳』三野村倉二所有地))でした。
そしてこの時、邸宅に付随していた旧紀州新宮藩士の暮らしていた「お長屋」を寮として開放したうえに、学生の事情によっては学資を給付しています。
これが発展して、明治16年7月には久松家の出資により常盤会が設立され、この地に学生寮が造られました。(⑨話参照)
ちなみにこの時、常磐会第一期生として正岡子規が入寮しています。
浜町での転地療養も病状改善につながらなかったようで、明治5年に定昭の隠居が許可されて定謨(さだこと)が家督を継いでいます。
そして、明治5年7月18日に定昭は28歳の若さで没したのでした。
その後の勝成
一方、隠居した後の勝成を見てみましょう。
定昭に家督を譲った後、一時期浜町の邸宅で一緒に暮らしていたのですが、ほどなく麻布に邸宅を用意してここに移っています。
やはり舅と同居では気ぜわしいだろうと気遣ってのことのようです。
この麻布邸がまたものすごくて、麻布区飯倉片町29番地に2,620.84坪という広大なもので、大正元年で地価17,690.76円(「東京市及接続郡部 地籍台帳」)。
ここで気ままで慎ましい隠居生活を楽しんだ後、明治45年2月8日に81歳でこの邸宅で死去しています。
ここまでなんとか久松家が明治維新を乗り越える様子を見てきました。
次回では、新時代の若き当主・定謨の時代を見ていきたいと思います。
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