今回は江戸の初夏を代表する風物詩、入谷朝顔市をご紹介します。
朝顔という花は、狭い路地でも場所を取らずに栽培できるうえに夏の朝には美しい花を咲かせてくれるありがたい存在で、まさに都市の花といえるでしょう。
はじめは薬用として栽培されていましたが、次第に観賞用として栽培されるようになったとか。
江戸の頃から現在まで、夏を代表する花として親しまれてきました。
そして今回ご紹介する入谷朝顔市ですが、真源寺[通称 入谷鬼子母神]界隈〔東京都台東区下谷1-12-16〕で7月6~8日の三日間開催されています。
夏の凉感を求めて地域の園芸好きが訪れる台東区の初夏の風物詩として親しまれているお祭りです。
それではこの朝顔市についてその歴史からひも解いてみましょう。
江戸の町は平地を開発して作った町でしたので、そのままだと緑の極めて乏しい環境でした。
そのため、大名屋敷から町民の住居にまで緑を求める人が多く、植木や植栽が切に望まれる状況となっていたのです。
このため、江戸に近い染井町から谷中、下谷までに植物を栽培して販売する植木屋が集まってきました。
このうち、下谷は水田が多く、別名入谷田圃とも言われたところでしたので土質(荒木田)が朝顔栽培に適し、朝顔栽培が盛んになっていきます。
そして元来、朝顔の鉢栽培は御徒町の徒士組(幕府の警護などを行う下級役人)が趣味と副業に始めたのが最初と言われています。
文政期(1818~30)にはこれが広がって、入谷や本所などでシーズンになるとのぼりを立てて見物料を取るものが表れて人気となりました。
朝顔第一次ブームの到来です。
為永春水『花暦』(天保6年(1835))には「(朝顔の鉢を)縁日の植木市売りが持いだすことおびただしきことなり」、『東都歳時記』(天保9年(1838))には「往還朝顔鉢植売りありき」とあるように、当時は朝顔の鉢を町に売り歩くスタイルが多かったようです。
そして江戸の朝顔熱はさらにヒートアップしていきます。
化政期には朝顔の変化(変種の珍しい花)を楽しむ花合わせ会が寺社の境内や愛好家宅で盛んにおこなわれるようになりました。
花合せ会によって嘉永期には栽培技術が飛躍的に向上し、極めて珍しい朝顔が作り出されていきます。
入谷に住んだ朝顔師成田屋山崎留次郎が大輪の朝顔新種「團十郎」の開発に成功すると、さらに朝顔人気に火が付きました。
成田屋は朝顔園の経営や花合せ会を主催したり、「朝顔図譜」という図鑑を刊行したりして、朝顔の流行と発展に大きく貢献しています。
そして嘉永期(1848~1855)からは成田屋のライバル、佐賀藩鍋島直孝侯主催の杏葉館が登場して朝顔第二次ブームが到来します。
ブームが大いに盛り上がって、朝顔のメッカとなった入谷では ついに市が立つまでになりました。
『斎藤月岑日記』万延2年(文久元年1861)6月15日の項目に入谷の朝顔市についての記述がみられ、朝顔の鉢植えを販売する市がこのころできたようです。
明治16年(1884)ころには入谷朝顔市はピークを迎え(朝顔第三次ブーム)、東京の風物として広く知られるようになりました。
その様子は、明治33年(1901)には朝顔を専門に扱う植木屋が10軒(丸新、松本、高野、植松、植惣、入又、入十、入久、新亀など)、朝顔市で使う今戸焼の鉢が本鉢四万六千小鉢十万に及んだと記録されています。
しかし、その後の地価上昇によって植木屋の郊外への移転や廃業が続き、大正2年、最後まで残っていた植松の廃業によって入谷名物の朝顔は姿を消すこととなってしまうのでした。
その後、ようやく戦後になって入谷の朝顔を復興させたいという声が高まります。
そこで朝顔市復興を願う有志が、かつて朝顔を栽培していた植木職人に栽培を依頼するなどの努力の末、ついに昭和22年(1947)に入谷鬼子母神で朝顔市の再興に成功します。
そして可憐な朝顔と初夏の風情を求める人々で年々賑わいを見せ、現在はついに参加店舗数が100点を超えるに至り、朝顔市は全盛期を彷彿とさせるまでになっています。
みなさんも朝顔で夏の朝を楽しんでみませんか?
この文章を作成するにあたって、以下の文章を参照しました。
『国史大辞典』国史大辞典編集委員会 吉川弘文館1979~97、『日本史大辞典』下中弘編 平凡社1992、新谷尚紀ほか編 吉川弘文館1999・2000、『江戸東京学事典』小木新造ほか編 三省堂1987、『江戸学事典』西山松之助ほか編 弘文館1984
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