前回、浅草橋の橋梁についてみてきました。
今回は、歴史上名高い浅草橋の先代たちの姿を、繰り返し浅草橋を題材とした作品を残している井上安治の作品とともに見てみたいと思います。
なお井上安治は、夭折の天才浮世絵師とも呼ばれ、師匠である小林清親とともに繰り返しこの辺りに取材した作品を数多く描きました。
【目次】その1:橋梁としての浅草橋とは? その2:浅草橋の先代たち その3:浅草橋受難の歴史 その4:現在の浅草橋に学ぶこと
明治31年架橋 浅草橋
現在の橋の先代は、明治31年(1899)7月竣工のわが国最初の鋼鉄製アーチ橋で、長さ十三間余、幅八間、設計者は原龍太と金井彦三郎が行っています。
当時の技術の粋を集めた橋で、「明治工業史」にも記載される名橋でした。
側面には橋名にちなんで麻の葉の透かし紋様が施された美しい橋で、観光名所にもなって版画の画題にもなっています。
明治17年架設 浅草橋
さらにその先代が、明治17年(1885)竣工の当時わが国最新鋭だった錬鉄製ボースリングトラス橋、設計は原口要です。
これまた名橋で、上記の架け替えにあたって、神田川上流の美倉橋に移設されて使用されていました。
明治6年架設 浅草橋
またさらにその先代が、江戸城の北の入り口、浅草見附の桝形石材を転用して作られた明治6年(1874)竣工のアーチ橋です。
石造アーチ橋としては東京最古級のもので、肥後の石工 橋本勘五郎の作でした。
これも人気で井上安治の版画の題材にもなっています。
ここまで見てきたように、江戸・東京の鬼門に位置する浅草橋は、その時々の最新技術を駆使した橋が架けられてきたのです。
しかしよく見ると、明治6年、17年、31年と、わずかなスパンで次々と架け替えられているのに気が付きませんか?
これは、傷みやすい木造橋並みの間隔で、石や鉄をもちいた橋にしてはあまりにも短い期間といえるでしょう。
次回はこの謎を解いていきたいと思います。
【目次】その1:橋梁としての浅草橋とは? その2:浅草橋の先代たち その3:浅草橋受難の歴史 その4:現在の浅草橋に学ぶこと
コメントを残す