《最寄駅:東京メトロ日比谷線 下谷駅》
明治時代はじめ、津山松平家には蠣殻町に蛎殻本邸、高田の旧下屋敷、そして隠居した松平斉民(確堂)の姿見邸と根岸別邸がありました。(『津山市史』)
今回はこのうち、根岸別邸跡と周辺を歩いてみましょう。(グーグルマップは松平男爵根岸邸跡の隣にある金杉安楽寺を示しています。)
金杉安楽寺
東京メトロ日比谷線下谷駅4番出口から昭和通を北に150mほど進み、最初の信号を左の日暮里方面へ曲がって、さらに100mほど西に進みましょう。
すると、金杉通の「柳通交差点」に到着します。
金杉通を渡って、根岸柳通を30mほど進むと、右手に立派な門構えのお寺が見えてきました。
これが浄土宗の佛迎山安楽寺、目の前にある門は寛政元年創建で、確堂が根岸邸を構える前から建っていた歴史ある建築物なのです。
寛政4年に正蓮社覺譽意的が隣の坂本村に創建、これを元禄6年に四世迎蓮社直翁が現地に再興しました。(『下谷区史』『新編武蔵風土記稿』)
『江戸名所図会』にも「金杉安楽寺」として掲載された人気のお寺で、本尊の「みかえり地蔵」がすべての人を余すことなく救ってくれるとして信仰を集めました。
松平男爵根岸邸を歩く
この安楽寺の隣に、確堂の根岸邸、後の松平男爵根岸邸があったのです。
安楽寺との境界付近、奥にのびる道をみると、立派な切石を使った石敷きが目に飛び込んできました。
この路地の石敷き、ひょっとすると松平男爵家邸宅の入り口の名残りなのかもしれません。
通りに戻ってしばらく北進し、今度は入り口に角材が建てられた細道を曲がりましょう。
車が通れないくらいの細道を、右、右、左と進んでいくと、邸宅の北側の道に出てきました。
あれ、何だかこのジグザグ道に見覚えが・・・と思ったら、『東京市及接続郡部地籍台帳』に掲載されていた道ではありませんか!
人が並んで歩くのがやっとくらいの道幅といい、直角の曲がり角といい、車社会になる前の雰囲気を残しているように思います。
ひょっとすると、小道の曲がり角に建てられた古色を帯びた立派な切り石なども、松平男爵邸が作られたころからのものなのかもしれません。
かつての邸内を走るまた、屋敷と宅地を隠していた小道は、形を変えて現代も生活道路として使われているのにはとても驚きを感じたのでした。
邸宅跡地はまるで迷路、昭和の風情が残る景色にはどこか懐くほっこりした気分になって、きっと不便だけど住み心地がいいのでは、と想像するところです。
屋敷の裏手に回り込んだところで、西に進んだところにある交差点を右折、北に進みましょう。
石稲荷神社・金杉公園
この道を100mほど北東へ進むと、小さな公園が見えてきました。
これが金曽木公園で、その北側にあるのが石稲荷神社です。
石稲荷神社は案内板によると貞享4年(1687)創建、『新編武蔵風土記稿』には御神体が石像とあるので、これが名の神社名の由来でしょうか。
『下谷区史』には崇拝者561戸とありますので、昔から中根岸と下根岸の鎮守様として大切に守られてきたのがわかります。
そして神社の隣の小さな公園が金曽木公園、公園名の金曽木とは、この辺りを指す古い呼称で、転じて金杉となったもの。
江戸時代には、現在の根岸4・5丁目辺りを金杉村と呼んでいました。
そして実はこの公園、現在は公園の北に見える金曽木小学校の校地だったのです。
確堂根岸邸
この公園で休憩しながら松平男爵家根岸邸について、ちょっとおさらいしてみましょう。
松平斉民(確堂)は明治4年(1871)に中根岸の名主・勝田某の居邸を購入して姿見邸から転居、新築工事を始めました。(「明治庭園記」)
この邸宅についてについて「明治庭園記」によると、庭園自体は購入より前に勝田氏が作っていた「大に年所を經過したるを以て、樹石共に蒼古の觀に富みたる者」をベースとして、和漢洋三種の建物に合うように改修した結果、「景物奇勝、當時に冠したり」「家屋園林、相共に絶類超凡」と、この時代の「白眉」とまで称賛される大邸宅となったのです。
とくに建物には趣向を凝らしていて、「日本風二階建の御殿は、専ら華奢にして、恰も草雙紙田舎源氏の繪に観るが如き、数寄物を竭して構造せり、又別に、西洋風の家屋有りて、付属調度等、皆上等制作なり、更に志那風の家屋有り、其締構尤も奇巧を尽くし、窓障塀等、総て唐画を観る如き光景なりと云えり」と、邸宅の様子を伝えてくれます。
確堂は、安政2年(1855)には若隠居して家督を慶倫してからは、幕府から年一万俵の隠居料が支給されていたこともあって、津山藩以外からの収入も多かったのでしょう。
そしてその晩年に、はじめて贅を凝らした大邸宅を新築したのです。
この屋敷は、明治24年(1891)に確堂が没した後、「此根岸別墅は、久しく閉鎖」されていましたが、八男で分家して男爵家を起こした斉に譲られました。
松平男爵根岸邸
「今尚中根岸町に於て、第一の大邸として、源氏塀を外周とせる松平邸」(「明治庭園記」)とされていますので、確堂が作り上げた邸宅は大正時代まで現存していました。
その一方で、地籍図では大正時代元年に、東京市下谷区中根岸町に松平斉光(松平斉長男)名義の宅地3筆合計2,642坪が確認できます(『東京市及接続郡部地籍台帳』)が、所有者・斉光の居住地が中根岸町107と邸宅地のおよそ半分となっていることから、そのほかの土地1774坪を家作にして運用していたようです。
地籍図を見ると、邸宅と家作を分割する道が不自然にジグザグになっているのですが(『東京市及接続郡部地籍図』)、邸宅の規模を縮小させながらも屋敷として残った南東半分と、家作となった北西半分を区画する道だったのです。
そして前に見たように、確堂が明治24年(1891)に没すると、八男の松平斉に譲渡されました。
しかし、この頃斉は松平子爵家本郷本邸に同居していましたが、前に記したように明治29年秋に失踪してしまいます。(第10回「松平男爵失踪事件」参照)
その時身重だった妻の浪子も本郷邸に同居していたのですが、夫の斉が失踪した状況で義兄家族との同居はやはり難しかったと見えて、松平男爵家は斉名義で明治36年までに根岸邸に移ったのです。(『人事興信録 初版』)
浪子はこのまま根岸邸で斉光を育てたのですが、斉光が成人した大正10年(1921)までに、再びかつての源兵衛村に残していた姿見邸に戻りました。(『人事興信録 第6版』)
これは、斉光が結婚を控えて住む家を整えたのでしょう。
そしてその後、大正13年頃には徳川(水戸)侯爵家昭武三女の直子と結婚、その後一男三女に恵まれて、昭和18年(1943)には母浪子とこの家で暮らしています。(『人事興信録 第14版下』)
斉光が邸宅を根岸から姿見に移した後は、屋敷は取り壊されて家作となったのでしょう。
今回、松平男爵根岸邸跡を探索した結果、邸宅と家作を分けていた道が残っていたのは前にみたところです。
根岸散歩
迷路のように細道が入り組む根岸の町をあるくのも楽しいのですが、ここは松平男爵根岸邸跡まで戻りましょう。
屋敷の北を区切って金杉公園前を通る道は、根岸の村々を貫く道でしたので、そのまま日暮里中央線の大通りまで抜けることができます。
この道を150mほど南西に歩いて根岸柳通を目指しましょう。
ちなみに、先ほど見た角材の立っている道と、今歩いている道にはさまれた街区は、わずかに家一軒分、なのに100mちかく細長く続く不自然なものとなっているのに気付きませんか?
昭和19年撮影空中写真(国土地理院Webより、8912-C1-143〔部分〕) 昭和22年撮影空中写真(国土地理院Webより、USA-M372-47〔部分〕)
じつはこれ、第二次世界大戦中に空襲による火災の拡大を防ぐ目的で作られた防火帯痕跡なのです。
こうした努力もあって、空中写真をみると根岸の町のかなりの部分が奇跡的に空襲の被害を免れたのですが、残念ながら旧松平男爵邸の地域や隣の安楽寺は焼失してしまっているのがわかります。
ちなみに、昭和17年(1942)の空中写真には、この防火帯付近に大きな邸宅や庭園は確認できません。
それもそのはず、『東京市下谷区地籍台帳』をみると松平男爵家が根岸近辺に持つ土地はなくなっていて、おそらく昭和の初め頃に売却したとみられます。
実際、松平男爵邸のあった土地は細分されたうえに居住者と土地所有者が半分ほど重なっている状況が見て取れるのです。
昭和17年(1942)の空中写真に写っているびっしりと建ちならんだ住宅は、もはや松平男爵家とは無縁のものになっているのです。
「時雨岡 不動堂」『江戸名所図会 十七』斎藤長秋編(博文館、1893) 「江戸名勝図会 御行の松」歌川広重 「御行の松」『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第1輯』東京市公園課、大正11年
御行の松
根岸柳通を西方向日暮里方面に100mほど行くと根岸4丁目の交差点に至り、これを北に曲がって50mほど行くと少し開けた場所に風情ある松が枝を広げているのが見えてきました。
これが根岸を代表する名勝の一つ「御行の松(おぎょう の まつ)」、かつては枝ぶりも美しい巨木でした。
残念ながら初代は昭和3年(1928)に枯死、現在は三代目が大切に守られています。
三代目の横に早くも四代目候補が横に控えているのがちょっとお茶目。
ちなみに、「御行の松」の名の由来には諸説ありますが、上野・輪王寺宮が所領の寺社を年に一度巡拝された際に、この松の巨木の下で休息されることになっていたからという説が有力です。
また、松の生える場所を時雨岡、松を時雨松とも呼んでいました。
これは、聖護院門跡道興准后『廻国雑記』にある時雨に降られて松の大木で雨宿りをした故事に由来します。
初代は国の天然記念物に指定された名木ですので、きっと確堂もこの松を仰ぎ見たに違いありません。
また、松の横には狸塚と書かれた碑が建てられています。
これは、近代落語の祖・三遊亭圓朝の「根岸お行の松 因果塚の由来」にちなんで地元有志がシャレで作ったものだそうです。
私が訪れた折は不動院の初午を地元有志が開催中、この逸話を笑顔でご紹介してくださったうえに厄除けの豆までくださったのでした。
御行の松から根岸柳通に戻って東に進み、金杉通との「柳通交差点」を右折、金杉通りを300mほど上野方面に進むと「根岸三丁目交差点」に出てきます。
ここを左折して東の浅草方面に150mほど進むと東京メトロ日比谷線・入谷駅の4番出口に戻ってきました。
どこか懐かしい雰囲気の根岸を歩くコースは緩やかな坂道で、所要時間はおよそ1時間30分の快適な散策でした。
コース周辺には江戸琳派の巨人・酒井抱一が晩年を過ごした雨華庵(うげあん)跡や、小野照崎神社がありますので、足に余裕のある方はぜひ訪れてみてください。
今回訪れてみて、周辺の街が碁盤の目のように整然とした街区なのに対して、細い路地が入り組む根岸はまるで迷路、そしてその奥に昭和の風情が色濃く残る姿を見ることが出来ました。
かつて「呉竹の里」とも呼ばれた根岸は、上野の山の北という江戸のすぐ近くにも関わらず、山里のような侘びた風情がある景勝地として憧れの場所、しかし今や住宅が立ち並んでその景観はすっかり変わっています。
しかし現在の根岸には、いまだかつての侘びた雰囲気を残していて、このことが町の奥深い魅力となっているのでした。
この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。
また、文中では敬称を略させていただいております。
引用文献:
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912
『東京市及接続郡部地籍台帳』東京市調査会、1912
『東京市下谷区地籍台帳』内山模型製図社出版部、1935
「明治庭園記」小澤圭次郎(『明治園芸史』日本園芸研究会(有明書房、1975、大正4年刊行本の再刊)
参考文献など:
『新編武蔵風土記稿 十五』内務省地理局、明治17年
『江戸名所図会 十七』斎藤長秋編(博文館、1893)
『人事興信録 初版』人事興信所編(人事興信所、1911)
『東京市及接続郡部地籍図』東京市調査会、1912、
『人事興信録 5版』人事興信所編(人事興信所、1918)
『人事興信録 第6版』人事興信所編(人事興信所、1921)、
『下谷区史』東京市下谷区編(東京市下谷区、1935)、
『人事興信録 第14版下』人事興信所編(人事興信所、1943)、
『津山市史 第5巻-幕末維新-』津山市史編さん委員会(津山市役所、1974)、
『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川地名大辞典」編纂委員会(角川書店、1988)、
『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(財団法人霞会館、1996)
『江戸・東京 歴史の散歩道1 中央区・台東区・墨田区・江東区』街と暮らし社編(街と暮らし社、1999)、
『華族総覧(講談社現代新書2001)』千田稔(講談社、2009)、
『根岸 御行の松』御行の松不動講編(竹田隆、2016)
Webサイト:新宿歴史よもやま話㊽ 源兵衛村の幻の名園(3)、金曽木小学校HP
次回は維新の殿様・華族屋敷を歩く松平子爵家編の最終回は、本郷邸跡を歩いてみましょう。
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