親承急逝
前回見たように、ようやく生駒家の家督を長女年子の婿養子、親承が継承して江美もようやく一安心しました。
ところが運命は江美にまだまだ安住の時間を与えはしてくれません。
姉さん女房・年子との新婚生活が始まった矢先の明治19年1月16日、なんと若干18歳で病により親承が急逝してしまったのです。
年子との間に子供はありませんでした。
お婿さん探し②
ふたたび御家の危機を迎えた生駒江美は、今度は当時まだ10歳の二女・巖子に婿を取らせることを決意して、混乱する実家ではなく夫親敬とつながりのある諸侯に頼ります。
そして今回白羽の矢を立てたのは、池田慶政の4男の政謙〔明治4年(1871)7月17日生〕でした。
やはり、親敬の縁者であることが決め手となったようです。
ここで親敬と親忠の関係を見てみましょう。
親忠の父・池田慶政(第8代岡山藩主)は奥平昌高(島津重豪の次男)の十男、そして生駒家13代親愛(ちかよし)は奥平昌高の六男で、生駒家14代親道(ちかみち、親敬の父)は奥平昌高の11男と、生駒家の当主三代はいずれも池田慶政の兄弟でした。
つまり、池田慶政は親敬の伯父さんにあたっていて、池田家と奥平家、そして生駒家は非常に所縁の深い家柄だったのです。
ついでに言うと、奥平昌高も養子になって奥平家を継いでいて、彼の実父は薩摩藩主島津家で名君の呼び声高い島津重豪です。
島津家の遠縁にあたる池田家(岡山藩)、奥平家(豊前中津藩)そして生駒家と、いずれも官軍についたのも、こうした家同士の繋がりがあったからなのかもしれません。
親忠、家督継承
そして明治19年(1886)3月19日には親忠と巌子が結婚、親忠が婿養子となって生駒家の家督を継承するとともに、名を親忠(ちかただ)と改めます。
無事に男爵に叙爵されて、生駒家は再びの危機を脱することができたのでした。
親忠と巖子は二男一女を授かるとともに、親忠は貴族院議員として活躍していきます。
ようやくここに生駒男爵家はようやく安定的な時間を得たのです。
ちなみに、親忠は大正5年(1916)2月26日に隠居して家督を長男の慶男(よしお)に譲るとともに、慶男は男爵を無事に襲位しています。
お婿さん探し③
さて、ようやく生駒家が安定すると、江美の気がかりは若くして夫・親承を失った長女・年子の身の振り方です。
ちょうどこのころ、妻を亡くした旧黒羽藩主・子爵大関増勤(おおぜき ますとし)から妻に迎えたいとの申し出がありました。
増勤は嘉永2年(1849)生まれでしたので、年子より一回り以上年上、むしろ江美と同年代なのですが、この申し入れを受けたのです。
久美死去
家督のことや娘たちの行く末も決まって安心した久美は、ようやく穏やかな暮らしを手に入れたようです。
そして明治36年(1903)12月16日、その波乱の人生を閉じたのでした。
享年55歳、苦労の多い人生でした。
墓所は東京都台東区松が谷の海禅寺、夫の親敬と同じ墓に入っています。
墓石を拝見すると、生駒車の家紋とともに、江見以降の当主とその妻の名が刻まれていました。
ここまで生駒家が明治維新を乗り切ったのかを見てきました。
次回では、明治維新を乗り切った生駒氏の歴史の舞台となった旗本屋敷跡と、明治政府から下賜された生駒家屋敷跡を歩いてみたいと思います。
参考文献:『明治過去帳〈物故人名辞典〉』大植四郎(東京美術、1935)、『江戸幕府旗本人名辞典』石井良助監修・小川恭一編著(原書房、1989)、『平成新修旧華族家系大成 上巻』霞会館華族家系大成編輯委員会編(霞会館、1996)
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