維新の殿様 平成昭和の「殿様」【久松松平家・松山藩(愛媛県)⑨】

前回見たように、華族軍人のお手本のような人生を歩んだ定謨は、旧領地である松山の発展にも大きく貢献した「名君」でした。

今回は父の事績を活かして活躍した定武(さだたけ)と、学究の道を歩んだ定成(さだなり)の時代を見ていきたいと思います。

久松定武(『貴族院要覧、昭和21年12月増訂丙』貴族院事務局、1946国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【久松定武(『貴族院要覧、
昭和21年12月増訂丙』貴族院事務局、
1946国立国会図書館デジタルコレクション)】

松平定武

明治32年(1899)に久松定謨(さだこと)の次男として東京・芝の久松伯爵邸で生まれました。

定武は東京帝国大学経済学部を卒業して三菱銀行に勤め、一時はロンドン支店に赴任しています。

三菱銀行退社後、昭和18年(1943)に定謨が死去すると、定武が襲爵します。

襲爵後の昭和19年(1944)には貴族院議員となり、終戦を迎えて華族制度廃止により廃爵となりました。

戦後の22年には旧領国の愛媛県で参議院議員選挙に立候補して当選しています。

26年には愛媛県知事選挙に出馬して当選し、46年まで五期つとめました。

久松家別邸(『皇太子殿下行啓記念写真帖』愛媛県編(愛媛県、大正11年国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【久松家別邸(『皇太子殿下行啓記念写真帖』
愛媛県編(愛媛県、大正11年)
国立国会図書館デジタルコレクション)】

在任中は愛媛県をミカンの一大産地にするなどの産業振興に手腕を発揮したのです。

ちなみに、「ポンジュース」の名付け親とされています(私の親族談)。

久松家の別荘・萬翠荘を愛媛県立美術館別館にしたのも定武の事績です。

知事退任と共に政界を引退して、その後は愛媛県美術協会会長、郵貯預金者の会理事などつとめたのち、平成7年(1995)96歳の時に松山市で死去しました(『華族総覧』)。

久松定成

定武の長男定成は昭和2年(1926)生まれです。

愛媛大学農学部を卒業し、東京農業大学で「日本産コメツキダマシ科の分類学的研究」という論文で博士号を取得して、農業の害中研究に従事しています。

その後、愛媛大学教授となり、靖国神社崇敬奉賛会会長も務めました。

平成20年(2008)に松山市内自宅で死去、81歳でした。

定成は次回でも取り上げますので、ちょっと覚えておいてください。

なお、NHKアナウンサーだった松平定知は分家の子孫です。(『華族総覧』)

ここまで久松(松平)家五代の歴史を見てきました。

ではここで、久松家の幕末から明治維新までを改めて振り返ってみたいと思います。

久松家の幕末維新

松平(久松)家が親藩として一途に幕府のために働いたのは前にみたところです。(③話④話⑤話参照)

その結果、朝敵の汚名まで着ることとなり、今度は明治政府にひたすら恭順したことも見てきました。(⑥話参照)

しかしその一方で、藩財政が危機に瀕するたびに藩士へそのしわ寄せして負担を負わせたのもまた事実です。(③話④話⑤話⑦話参照)

そしてそれは領民にも同じで、江戸時代の平均に比べて二割くらい高い税率に長く苦しめられてきました(伊予国全体の傾向でもあります)。

ですので、久松(松平)家は、地元ではまるで人気がない状況にあったのは言うまでもありません(『愛媛県の歴史』、『角川地名大辞典 愛媛県』)。

「高浜虚子」(『定本虚子全集 第1巻』高浜虚子(創元社、1948)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【高浜虚子(『定本虚子全集 第1巻』
高浜虚子(創元社、1948)
国立国会図書館デジタルコレクション)】

維新の久松家

しかし、久松定謨と定武は旧領の松山に教育を中心に投資を重ねて、地域の近代化と発展に大きく寄与したことは忘れがたい事実です。

その結果、秋山兄弟や正岡子規、高浜虚子や河東碧梧桐などあまたの人材を輩出したことも見てきました(①話参照)。

そうしたことを踏まえたうえで、改めて幕末の松山藩と松平(久松)家を見てみると、以前とは少し違った見方が出来ること気付きます。

たしかに松山藩が保守的で旧態依然としていたのは事実ですが、藩論が終始佐幕で一貫していましたので、藩内で佐幕と尊王が対立して抗争することがありませんでした。

「秋山好古中将」(『大演習写真帖』写真通信社(博報堂、明治42年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【秋山好古中将(『大演習写真帖』
写真通信社(博報堂、明治42年)
国立国会図書館デジタルコレクション)】

これによって、人材が無為に失われることがなかったのは重要な事実です。

不幸中の幸い、全くの偶然とも言えますが、私は久松(松平)家のブレない姿勢が良い結果を生んだと思います。

ですので、当主がひとたび領民の方を向くと、「良い領主」になるのだと思います。

こういった意味で、冒頭にみた司馬遼太郎が『坂の上の雲』で描いた時代錯誤で保守的、藩士や領民を無視する姿と、私の父が語った「よい殿様」とはどちらも一面で正しいと言えるでしょう。

次回では、明治時代における久松家の姿を端的に表す久松小学校の深い縁の物語を見ていきたいと思います。

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