前回みてきたように、子爵に叙せられた織田家は信恒を養子に迎えて第十四代当主としました。
はたして信恒は、織田子爵家の家名を上げることができたのでしょうか。
じつは、信恒はおそらく信長以降の当主でもっとも活躍した当主。
そこで、年代に応じて三回に分けて信恒の半生をたどってみたいと思います。
織田信恒(のぶつね・1889~1967)
信恒は、明治22年(1889)8月3日、奥州中村藩相馬家当主・相馬誠胤の長男として、東京府に生まれました。
幼名は相馬秀胤です。(『人事興信録初版』)
明治23年(1890)ごろ、織田子爵家が麹町区内幸町1丁目6番地の相馬子爵家邸宅に移ると(『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1891))ほどなく、明治24年(1891)2月3日織田信学が死去しました。(『平成新修華族家系大成』)
そして明治28年(1895)6月、天童藩織田家当主・織田信敏の養嗣子となっています。(『人事興信録初版』『平成新修華族家系大成』)
学習院時代
明治29年(1896)4月学習院初等科に入学すると、通学の便を考えたのか、明治32年(1899)ころに、信敏は内幸町から、東京市牛込区市ヶ谷薬王寺前町五十二番地に引っ越しています。(『新撰華族名鑑』本田精志編(博文館、1899))
明治34年(1901)3月学習院初等科を卒業すると、学習院中等科に入学、同年7月1日、養父信敏死去により家督を継ぎ、襲爵しました。(『人事興信録初版』『平成新修華族家系大成』)
その後も、妹ゑつと婚約者で先代子爵織田信敏二女・栄子という、ともに明治25年(1892)4月生まれの女性陣と暮らす生活が続きます。(『人事興信録 3版(明治44年4月刊)』)
驚くべきことに、妹のゑつと婚約者の榮子も、ともに学習院女学部に通っていたとする資料あり、そうすると二人が同級生だったのですから、何とも不思議な環境に思えてきます。
『重臣たちの昭和史』で信恒の学生時代を見てみましょう。
信恒たちが高等部に上がった明治41年(1908)6月に、学習院は四谷から目白に移転し、6棟の寄宿舎が建てられました。
そして学習院中等科と高等部は、原則的に寄宿舎で寝食を共にすると決められたのです。
なかでも注目されるのが、乃木希典院長自ら敷地内の「乃木室」と呼ばれる一棟に住んで、生徒の生活全般にわたる細かな規則を定めて、生徒たちを厳格に監督する軍隊式生活を送ることになります。
ちなみに、英語教師は鈴木大拙、ドイツ語は西田幾太郎が四校から移ってくるという充実ぶりでした。
信恒の同級生たち
信恒の同級生は、
木戸幸一(1889~1977:侯爵、第二次大戦時の昭和天皇側近)、
長興善郎(1888~1961:白樺派作家、小説家、劇作家、評論家)、
細川利壽(1890~1946:旧肥後新田藩、子爵、貴族院議員。大正・昭和期の農林官僚。)、
松平外與麿(1890~1959:男爵、貴族院議員。大正・昭和の内務官僚。戦後は千葉大や専修大講師)、
原田熊雄(1888~1946:男爵、最後の元老・西園寺公望の秘書、貴族院議員)、
佐竹義春(1890~1944:秋田佐竹宗家、侯爵。貴族院議員)、郡虎彦(1890~1924:劇作家)、板倉勝央(1888~1964:旧安中藩、子爵)、鍋島孝三郎(旧佐賀藩主鍋島直大庶子、旧奥州七戸藩南部信方養嗣子信孝)、松前勝廣(1889~1940:松前藩、子爵)、平尾信通、鈴木友亮の13名。
信恒の成績は武課のみ「甲」、その他すべてが「乙」であまり良い成績ではありません。
さらに、一つ下の学年には近衛文麿が在籍していましたが、この時はまだ知り合いではなかったようです。
京都帝国大学時代
そして明治45年(1912)3月に学習院高等科を卒業すると、信恒は京都帝国大学に入学、ついに先代子爵織田信敏二女・栄子と結婚して京都府愛宕郡白川村の家で暮らしはじめると、大正2年(1913)4月、長男・信正が生まれています。(『人事興信録 4版』)
しかし、どうして信恒は東京帝国大学ではなく、遠く離れた京都で進学したのでしょうか?
ここで再び『重臣たちの昭和史』を見てみましょう。
京都帝大への進学について、原田は「この頃学習院の高等科から出た者は、東京の大学が満員だから全部京都大学に行けというような話だったので」信恒も木戸、原田らとともに京都帝国大学法科大学に進んだというからびっくりです。
京都での暮らし
そして大学に近い白川村の入り口に家を借りて妻の榮子とともに暮らしたのは前に見たところです。
京都帝国大学には、学習院時代からの恩師・西田幾太郎も教官となっていましたので、学習院時代からの友人グループとともに西田の講義を聞いたり、ピクニックに行くなど楽しい学生生活を送ったようです。
この頃の京都帝国大学では、西田のほかにも、河上肇や米田庄太郎などの個性的な学者が多くいたことも他所では味わえない魅力でした。
この頃の友人は、学習院からの木戸、原田、板倉、平尾、一学年下だった近衛文麿のほか、同じく学習院出身の二人。
赤松小寅(1890~1944:大正昭和の内務・警察官僚、高知県や福岡県、京都府の官選知事)、
橋本実斐(1891~1976:公卿華族、伯爵、貴族院議員、農商務官僚、政治家)、
また、熊田の借家二階に住んでいた天野貞祐(1884~1980:哲学者・教育者、京都大学名誉教授、獨協大学初代学長)、
上田操、一高出身の浅見審三(経済学者、短期金融市場の著作多数)、六高の石黒義郎などもメンバーに加わっています。
西園寺公望
そして大正2年(1913)4月、陸軍二個師団増設問題で第二次西園寺内閣が総辞職して京都田中村に逼塞した西園寺公望に旧知の原田や橋本が「時折お訪ね」して近衛を紹介していますので、他のメンバーも西園寺と知り合った可能性が高く、あるいは信恒も知り合ったとみてよいでしょう。
後のことですが、原田をはじめとするこのメンバーが、のちに西園寺公望、さらには木戸幸一や近衛文麿を支えていくことになるのです。
「西田幾太郎先生をかこんで『禅の研究』を読んだり、休日には西田先生を加えて嵐山に遊んだり、近衛がロマンチックな作詩をして三高寮歌の替え歌でみんなそろって歌いながら北白川の辺を歩き回ったりしたものだ。」
このように木戸幸一が『重臣たちの昭和史』の著者・勝田龍夫に懐かしんで話した思い出は、木戸にとっても、また近衛や信恒にとってもかけがえのないものだったのでしょう。
何とも楽しそうな学生生活、その情景が目に浮かんでくるようです。
こうして信恒たちは京都大学で楽しく学業を終えました。
そして木戸は農商務省へ、信恒は原田とともに日本銀行へ就職し、いよいよ激動の時代へと乗り出すのです。
日本銀行時代
京都帝国大学を卒業してからの信恒について、年代順に追ってみましょう
大正4年(1915)京都帝国大学法科大学政治学科を卒業し、日本銀行に入り大阪支店に勤務。同年11月、二男信道生まれる。(『人事興信録 5版』)
この大阪勤務の間も、市谷薬王寺町の邸宅を維持しています。(『人事興信録 6版』)
欧米漫遊
大正9年(1920)日本銀行辞職後、商工業視察の為欧米を漫遊(『人事興信録 7版』)、この漫遊先については、満州、中国、朝鮮、欧米とするものもありますので、広く世界をみてきたということでしょうか。(『議院制度七十年』)
この漫遊は、どうやら妻の栄子と二人で行ったらしく、旅を終えると二人で市ヶ谷薬王寺町の邸宅に戻っています。(『人事興信録 7版』)
さて、この旅の目的は商工業の視察ですので、箔をつけたうえで日本銀行での経験を生かして経済が得意な政治家になるのが一般的なルート。
ところが信恒は、思わぬところに興味を持ったのです。
「(ヨーロッパ漫遊中に目にした)西洋の子供新聞や雑誌に触れ、大正12年(1922)に自ら子供のための新聞を発行せんと帰国、巌谷小波に相談を持ち掛けた。東京朝日新聞社に交渉に行くが、おりから創刊準備にかかっていた『日刊アサヒグラフ』に編集部員として迎えられ、同紙の「子供ページ」を担当」(『日本児童文学大事典』)することとなって、朝日新聞入社したのです。(『日本人名大事典』)
こうして信恒の新たな目標に向かって歩み始めました。
十一会発足
いっぽう、大正11年(1922)11月11日、少壮華族の集まりである「十一会」が設立されました。
メンバーは、近衛文麿、原田熊雄、岡部長景、広幡忠隆、有馬頼寧、相馬孟胤、そして織田信恒など。
もともとは読書会でしたが、会員の多くが貴族院議員や官僚、政治家などになるにしたがって、「当面の政治外交の問題」が話題の中心となって、毎月一回の会合は不定期ではあったものの、昭和20年(1945)まで続いています。(「木戸幸一研究」角田竹男)
高等学校や大学のつながりから発生した会ですが、その多様なメンバーが集める情報は、「情報の専門家」とも称された木戸幸一の大切な情報元となって木戸たち「宮中グループ」を支えたのです。
こうして東京朝日新聞社々員となった信恒ですが、はたしてその夢はかなえられるのでしょうか。
次回は、信恒のデビュー作「正チャンの冒険」をみてみましょう。
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