前回は、デビュー作の「正チャンの冒険」が大ヒットするものの、児童文学から離れて、社会問題に関心を持つようになるまでを見てきました。
そこで今回は、政治家となった信恒の活躍を、彼の年譜をたどりながら見ていきたいと思います。
政治家・織田信恒
大正15年(1926)6月鉄道大臣秘書官に任ぜられしも昭和2年(1927)4月官を辞す(『人事興信録 第8版(昭和3年)』)
政治家になる前に、大臣秘書を務めて政治の世界を実地で学ぶというのは、この時代、政治家を目指す場合のセオリーだったようです。
昭和3年(1928)7月26日、貴族院議員補欠選挙で当選。(『日本人名大事典』)
貴族院では研究会に所属。(~昭和22年(1947)貴族院廃止まで議員を務める)(『議院制度七十年』)
昭和3年(1928)4月浜口内閣で外務参與官に就任するものの、同年6月退官する(『人事興信録 第9版(昭和6年)』)
昭和6年(1931)満州事変勃発
昭和7年(1932)斎藤内閣で農林政務次官に就任するものの同9年7月に退官。
また同時に関税調査委員会、輸出生糸販売統制調査会、米穀統制委員会、馬政調査会の各委員を兼任する。(『人事興信録 第10版(昭和9年)』)
政務次官の経験から、関連するさまざまな政府の委員会の委員を兼ねるようになっています。
また、『議院制度七十年』にある「宗秩寮審議官」に就任したのも、この時期でした。
昭和8年(1933)日本が国際連盟を脱退
昭和11年(1936)二・二六事件勃発
宮中グループを支える
各種委員を掛け持ちして、政治家として多忙な日々を送っていた信恒ですが、その活動の多くが古くからの友人である近衛文麿や木戸幸一、原田熊雄たちを支援することに充てられていたようです。
前に見た「十一会」での会合はもちろん、これに加えて近衛・木戸・原田と意見交換する機会もあったようです。
「昭和7年(1932)1月7日、原田熊雄の満44歳の誕生日を祝う名目で、昼から料亭桑名で木戸、熊田、信恒の三人で集まる。近衛は鎌倉で療養中のため欠席。三人は森恪の動きや陸軍の内情などを「夕方まで話して」席を立った。」(『重臣たちの昭和史』)
そして、昭和12年(1937)5月15日日本放送協会の理事に就任していますが、これも前年の昭和11年(1936)9月25日に近衛文麿が総裁に就任しているので、近衛が信恒を引っ張った形なのでしょう。
ちなみに、華族の役員は、近衛と信恒のほかには、大正12年(1923)12月11日東京放送局初代総裁に就任した子爵後藤新平のみ(大正15年(1926)8月20日退任)(『日本放送協会史』)
日本硫安社長に就任
昭和12年(1937)6月4日第一次近衛文麿内閣成立
同年7月7日盧溝橋事件発生、日中戦争に発展
近衛内閣により、戦争協力の思想統制運動である国民精神総動員運動開始
このころ、信恒は日本硫安(株)取締役に就任(『議院制度七十年』)
同年11月硫安販売会社取締役会長に就任する(『人事興信録 第12版(昭和14年)下』人事興信所編(人事興信所、1939))
硫安とは硫酸アンモニウムのことで、肥料の原料として製造していました。
硫安工業は1904年に空気窒素固定法が発明されて発達、日本でも1910年から製造がはじまり、技術革新により1924年からは製造が本格化します。
こうした中、1930年代に入ると国際的な過剰生産に悩まされつつも、1935年ごろにはドイツに次いで世界第2位の生産量を誇るまでに発展したのです。
近代農業では肥料は不可欠ですので、その原料となる硫安を国が主導して生産販売体制を一本化、こうして作られたのが日本硫安(株)で「日本硫安株式会社ハ硫酸アンモニアノ需給ノ円滑及価格ノ公正ヲ図ル為必要ナル事業ヲ営ムコトヲ目的トスル株式会社」で「政府ハ日本硫安株式会社ノ業務ヲ監督」と定められていました。(「硫酸アンモニア増産及配給統制法施行規則」)
ですから、その社長にはふさわしい人物が選ばれるわけですが、農林省に太いパイプを持つ友人の木戸幸一が推薦したのかもしれません。
ちなみに、いかにも国策企業らしく、日本硫安の経営陣には、片山内閣で運輸大臣、芦田内閣で国務大臣を務めた改進党の苫米地義三と、昭和電工社長などを歴任した立憲政友会の森矗昶の二人の衆議院議員も加わっています。(『議員制度七十年史』)
昭和13年(1938)4月国家総動員法公布
国家が経済への統制を強めていく中で、信恒はこれまでの職務に加えて静岡電気鉄道社長に就任しています。(『議院制度七十年』『人事興信録 第11版改訂版』)
古川ロッパとの出会い
このころ、目的ははっきりしませんが、信恒は満州の視察旅行を行いました。
日本硫安の社長ですから、満州は肥料の重要な「輸出」先ですので視察したというのならば納得のいくところですが、どうやら目的はほかにもあったようです。
『古川ロッパ昭和日記 昭和13年』には、織田信恒との会合が記されています。
「十一月二十三日(水曜)
(前略)織田信恒子爵来り、明日満州へ出発とのこと、サンボアへ案内し、南の万花てふ魚すきへ行く。」(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』)
情報はわずかですが、ロッパの書き方からは二人がこの時初めて会ったこと、そして信恒の方から会合を依頼したこと、また満州視察前日に急遽訪れたことが推測できます。
さらに、帰国してからも会合が持たれました。
「十二月九日(金曜)
又彦根へ。
京都ホテルから電話、満州から帰りの織田信恒が会ひたいと言ふ。ロビーで織田の満州話をきく、僕も人の話をきくのはよほど下手だ、小林一三に近いものがある。(後略)」(『古川ロッパ昭和日記 戦前篇』)
信恒はいったい何についてロッパの助言を求めたのでしょうか?
前もって信恒が訪れて直接依頼していること、そして忙しいロッパがわざわざ会って報告を聞いている、しかもどうやらロッパは的確な意見が言えなかったらしい・・・
ロッパといえば、舞台芸術全般や興行に詳しいのはもちろんですが、信恒は満州で何を見て、ロッパにどんな助言を求めたのか、謎は深まるばかりですね。
それにしても、単独で行動し、見知らぬロッパにも積極的にアプローチするとは、信恒の行動力に驚かされます。
経営者として
昭和14年(1939)1月5日第一次近衛文麿内閣、汪兆銘の重慶脱出で総辞職
このころ、信恒は陸軍主計少尉になったほか、貴族院議員、静岡電気鉄道(株)社長、日本硫安(株)取締役会長、日本放送協会理事を兼務するという相変わらず多忙な日々を送っています。(『人事興信録 第12版(昭和14年)』)
昭和15年(1940)7月22日第二次近衛文麿内閣成立
昭和15年(1940)10月新体制運動の結果、大政翼賛会結成
昭和16年(1941)には、今までの貴族院議員、静岡電気鉄道(株)社長、日本硫安(株)取締役会長、日本放送協会理事に加えて、日本肥料(株)常任監事、東北振興電力(株)監事と、さらに職務が増えています。(『人事興信録 第13版』『人事興信録 第14版』)
このことは、いずれも国の基幹産業を担う企業ですので、これまでの延長とも考えられますが、あるいは信恒が政治から経営へと軸足をずらし、近衛から距離をとったことを意味するのかもしれません。
敗戦と戦後の信恒
昭和20年(1945)8月15日敗戦
近衛や原田をはじめ、次々と仲間が倒れていったうえに、木戸など戦争犯罪を問われる仲間もあって、「十一会」は消滅してしまいました。
またこのころ、東京市牛込区市ヶ谷薬王寺の邸宅から世田谷区代田へと居所をかえたようです。
また、昭和22年(1947)貴族院の廃止を議員として見届けるとともに、華族制度の廃止によって天童織田子爵家は廃爵されました。
それからも信恒は休むことなく、戦後も数々の職務を続けていきます。
日本港運業界評議員、内閣委員、産業復興営団設立委員等の要職を務め(『議院制度七十年』)、京浜急行電鉄取締役・監査役、京浜自動車工業社長などを歴任し、その後も川崎さいか屋取締役を務めています。(『日本人名大事典』『政治家人名事典』)
信恒死す
昭和42年(1967)5月20日午後4時、心筋梗塞のため東京都世田谷区代田の自宅で死去、同年5月23日、天童織田家菩提寺・高林寺で葬儀が行われました。(『日本人名大事典』『朝日新聞』昭和40年(1967)5月21日付)
安達峰一郎記念財団
信恒の最後の仕事が、財団法人安達峰一郎記念館理事長。(『日本人名大事典』)
安達峰一郎(1868~1934)とは「かつて外交官として、また常設国際司法裁判所長として背か平和に貢献」した人物で、「昭和19年(1934)12月にオランダ国アムステルダム市において永眠したが、オランダ国家は国葬の礼をもって、世界の良心の府の常設国際司法裁判所は、同所葬をもって、その功績を讃えた。」(安達峰一郎記念財団Webサイトより)
この財団は「安達峰一郎の偉業を後世に伝えるとともに、有為の国際的人材を養成することを目的に」昭和35年(1960)に設立されましたが、その第2代理事長を信恒が昭和37年(1962)から亡くなるまで勤めました。
じつは安達峰一郎は、かつての天童藩領の出身。
信恒からすると、ゆかりの地出身の世界的な偉人を顕彰する財団の理事長を務めることは、かつての藩主の家柄にふさわしく誇らしい仕事だったのでしょう。
こうして織田信恒の華々しい活躍で、華族・旧天童藩主織田子爵家は見事有終の美を飾って、その歴史を閉じたのでした。
ここまで藩主織田家の歴史を見てきました。
ところで、幕末に庄内藩に焼き討ちされた天童は、いったいどうなったのでしょうか。
次回は天童の近代を見てみることにしましょう。
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