花見は幕府の陰謀?  花見と桜の歴史⑤

【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?②花と言えば梅?桜?③「花は桜木 人は武士」④花見の革命⑤花見は幕府の陰謀?⑥花見の完成

前回見たように、文化文政頃から一本桜から桜並木を観賞するスタイルに変わりました。

しかし、桜は自然の状態では群生しにくい樹種です。

それでは、どうして突然桜並木が登場したのでしょうか?

またなぜ、誰の手によって突然桜並木が登場したのでしょうか?

実はそこには江戸幕府の政治的な意図が隠されているのです。

そこで今回は、幕府が桜に込めた意図を見てみましょう。

「江都名所 飛鳥山之花見」(歌川広重、1834 メトロポリタン美術館)の画像。
【「江都名所 飛鳥山之花見」歌川広重、1834 メトロポリタン美術館】

花見には一時的にですが、春の喜びや華やかさと屋外の開放感から社会の制約から解き放たれる感覚が得られるのではないでしょうか。

これは、花の名所で開花期だけという時間的空間的に限定された状態で、日ごろの社会的身分や序列が一時的になくなることに起因するのです。

さらに重要なのは、花見が終わると自然に社会的身分や序列が復活すること。

このことが社会秩序の安定と維持に役立つと見た幕府が、桜の名所を創作して江戸っ子たちに花見の習慣を広げたのです。

それでは具体的に幕府が桜の名所を整備していく様子を見てみましょう。

「上野」(『画本東都遊 下』浅草庵市人著、葛飾北斎画、享和2年(1802))の画像。
【「上野」『画本東都遊 下』浅草庵市人著、葛飾北斎画、享和2年(1802)】

江戸でもっとも有名な花の名所は上野です。

「当山(東叡山、上野の山)は東都第一の花の名所」【『江戸名所花暦』】で、広範囲に桜が広がるだけでなく、寒松院原(現上野動物園)の「いぬざくら」をはじめ「秋色桜(しゅうしきさくら)」などの銘木もあって、花見のころには大変な賑わいでした。

古典落語の「花見の仇討」もこの上野が舞台となっています。

しかし、上野の東叡山寛永寺は将軍家の菩提所でしたので、花は見るだけで宴会は禁止されていました。

「三囲神社」(『画本東都遊 中』浅草庵市人著、葛飾北斎画、享和2年(1802))の画像。
【「三囲神社」『画本東都遊 中』浅草庵市人著、葛飾北斎画、享和2年(1802)】

そして、上野に匹敵する人気を博したのが墨堤です。

向島では寛永年間(1622~44)に徳川家綱が桜を植え、これを吉宗が増やして枕橋から千住まで一里の桜並木を作り、多いに賑いました。

「是なん江都游賞の第一とぞいふべかりける」【『東都歳時記』】とまで称えられる花の名所で、多くの人が桜の下の墨堤散策を楽しんだのです。

「飛鳥山」(『画本東都遊 上』浅草庵市人著、葛飾北斎画、享和2年(1802))の画像。
【「飛鳥山」『画本東都遊 上』浅草庵市人著、葛飾北斎画、享和2年(1802)】

また、吉宗は元文2年(1732)に命じて飛鳥山にも桜を植えました。

関東平野の雄大な眺めが得られる飛鳥山では、幕府が庶民の宴会を認めたことで、一日の行事として江戸っ子たちが好んで遊山に行くようになります。

「富士三十六景 武蔵小金井」(歌川広重、1858 大英博物館)の画像。
【「富士三十六景 武蔵小金井」歌川広重、1858 大英博物館】

さらに規模の大きなものが小金井です。

徳川家光から吉宗まで植え続けられた桜は一里半(6㎞)におよび、「両岸数千万株の花を見る事爰に尽きぬべし」「吉野の眺にもまさりぬらん」【『遊覧雑記』】と謳われた桜の一大名所となります。

近くにある国分寺跡や府中・大國魂神社などと合わせて一泊旅行というスタイルで大いに人気を博しました。

そのほかにも、品川の御殿山はじめ池上本門寺や谷中日暮里、大塚護国寺など、江戸のあちこちに桜の名所が誕生したのです。

「花見分類・嫁自慢のお花見」(『物見遊山・漫画と文』岡本一平(磯部甲陽堂、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「花見分類・嫁自慢のお花見」『物見遊山・漫画と文』岡本一平(磯部甲陽堂、大正5年)国立国会図書館デジタルコレクション】

このように、花見は江戸っ子の暮らしに欠かせない春の一大娯楽として定着しました。

その結果、幕府の狙い通りに江戸の安定と繁栄に大きく寄与することとなります。

では、江戸っ子たちの眺めた桜はどのようなものだったのでしょうか?

次回は桜の木から花見の革新を見てみましょう。

【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?②花と言えば梅?桜?③「花は桜木 人は武士」④花見の革命⑤花見は幕府の陰謀?⑥花見の完成

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