吉原細見での大成功 蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう)②

前回は蔦重こと蔦屋重三郎のビジネスが成功するまでを見てきました。

そこで今回はさらに一歩踏み込んで、蔦重が実際に成功したビジネスについて具体的に見ていきたいと思います。

「東都名所吉原仲の町桜之図」(歌川広重 大英博物館)の画像。
【「東都名所吉原仲の町桜之図」(歌川広重 大英博物館)】

蔦重の最初の成功は、「吉原細見」によるガイドブックのビジネスモデルを作り出したことです。

江戸吉原の情報を凝縮して小冊子にまとめたものが「吉原細見」という書物。

吉原細見のもとになっている吉原遊郭の案内書としては、寛永19年(1642)刊『あづま物語』が最も古いものとされ、その内容は、名所見物にかこつけて吉原を紹介し、評判の高い遊女に触れる遊女評判記というスタイルのものでした。

「あづま物語(写本)」(徳永種久 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「あづま物語(写本)」徳永種久(寛永19年(1642)) 国立国会図書館デジタルコレクション】

そのため、遊女個人の紹介が主となったリピーター向けの内容で、読みづらく、さらに店の情報やサービス内容・料金については情報が不足しるきらいがありました。

明暦大火頃(1657)に吉原が浅草寺裏の田圃に移転して新吉原遊郭が誕生したちょうどそのころ、吉原を利用数する客が武士たちから町民へと劇的に変わっていきます。

駆け引きを含む揚げ屋遊びを好んだ武士層は経済的破綻をきたしたことが変化を引き起こしたのです。

変わって新しく客層の中心となった町民は、わかりやすいサービス内容を好みます。

ですので、旧来の遊女評判記から吉原細見がその地位を奪ったのはいうまでもありません。

「芳原細見図」(すはらや市兵衛、本や三郎兵衛(万治元年(1658))国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「芳原細見図」(すはらや市兵衛、本や三郎兵衛(万治元年(1658))国立国会図書館デジタルコレクション)】

変わって人気となったのが吉原の案内図として紙一枚に略図を描いただけのものが刊行されるようになります。

この案内図はコンパクトでしたので、持ち運びに極めて便利なものでした。

しかし情報不足は否めず、より多くの情報を求める声が高まります。

そこで、享保12年(1727)には伊勢屋が横綴じの懐中本スタイルを開発、この中でに地図情報にプラスして町(通り)ごとの店舗情報も加味したのです。

写真はこのタイプで当時人気を誇った「吉原細見(大門地図)」(寛政7年(1795))です。

左の地図の赤○部分を曲がると、右のページの真ん中にある通りに出る、というシステムを導入して大幅改訂、右ページが地図と店の並びが同じになっているのが画期的でした。

しかし版元が乱立した上に、版元ごとに内容はまちまち、本の名前さえばらばらといった状況になってしまいます。

「風来山人」(『肖像 1之巻』野村文紹 国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【平賀源内(「風来山人」『肖像 1之巻』野村文紹 国立国会図書館デジタルコレクション)】

蔦重が吉原の案内図販売の株を入手し、出版権を手に入れたのはこんな時です。

彼が発行した『細見嗚呼御江戸』は序文を平賀源内が執筆するなど、情報だけではなく文学的価値をも加味した画期的な内容のものでした。

具体的には、従来より一回り大きなサイズの縦綴じで、人込みでも見ることができるスタイルをとっています。

さらに内容は、店からの広告という体を取ることで店ごとに情報を整理、さらにこれを吉原遊郭の地図と連動して見られるように工夫が施されているというものでした。

写真は「吉原細見(大門地図)」(蔦屋重三郎、寛政7年(1795))です。

スタイルは先にみた鱗形屋版に近いのですが、余分な装飾を削り、地の大きさを工夫して見やすくしているのがわかるでしょうか。

何より利用者の使い勝手を重視した蔦重の吉原細見は市場を独占する勢いを見せて、ついには天明2年(1782)には細見版元の株を掌握し、独占販売体制を作り上げることに成功します。

そしてこの種の出版物を「吉原細見」の総称で統一し、江戸っ子たちが見やすいうえに楽しく見られるものに作り上げて、日常生活に溶け込むようにしました。

蔦重は独占販売しても改良の手をゆるめません。

写真は「吉原さいけん(江戸町二丁目)」(蔦屋重三郎、安永8年(1779))です。

基本的にスタイルは同じですが、より見やすいように小さな工夫がなされてるこのがわかります。

そして最大の工夫が遊女のランクが一目でわかるように合印(トレードマーク)を整理して定めたことです。

写真では合印は鱗形屋版(上)と蔦屋の安永8年版(下)を比べてみました。

掲載場所は前者が巻末近く、後者が巻頭です。

先にあげた店情報部分を見返してもらうと、どちらがわかりやすいか一目瞭然ですね。

さらに、細見への掲載を武器に、ランクによって揚げ代(料金)を統一する改革を促して、料金体系をシンプルで明解にしました。

そして、この揚げ代をわかりやすく吉原細見に記入したのです。

これも享保20年(1735)以来、揚げ代の掲示は行われていましたし、元文3年(1738)からは公示もされていたのですが、複雑で分かりにくいものでした。

蔦重はこれを整理して誰にでもわかるものへと改良し、吉原細見に掲載します。

これは、債券発行で得た情報を、今度は吉原遊郭の運営に還元して活用・改善することで利用者目線の改革をしたのでした。

さらに、蔦屋版は吉原の芸者一覧や、吉原近くの日本堤(土手)の遊女一覧といったおまけが掲載されていますので、利用したい人にはかゆいところまで手の届くような便利な代物だったのでしょう。

「吉原細見」(蔦屋重三郎、寛政7年(1795) 国立国会図書館デジタルコレクション)の奥付と出版物案内の画像。
【「吉原細見」(蔦屋重三郎、寛政7年(1795) 国立国会図書館デジタルコレクション)の奥付と出版物案内】

驚くべきことに、蔦屋版の吉原細見には巻末に蔦屋出版物の案内までつける抜け目のなさ。

ちなみにその後、幕府による寛政の改革の中で寛政9年(1797)には合印が十四階級に整理(意外にも増加しています)、揚げ代も昼夜・夜半の別で二十三種に整理、金額の高低はあまりないものになります。

このまま定着して幕末まで50年ほど使われ続けたのでした。

ここで蔦重による吉原細見の改良についてまとめてみましょう。

➀序文を平賀源内に書かせるなど、格調高いものにしようとした。

②従来より一回り大きなサイズの縦綴じで、使いやすいスタイルにした。

③店からの広告という形をとることで、店ごとの情報量を増やすとともに、これを吉原の地図と連動して見られるように工夫した。

④遊女のランクが一目でわかるように合印(トレードマーク)を定めた。さらに、ランクによって揚げ代(料金)を統一、料金体系をシンプルで明解にするよう改革を促したうえで、これをわかりやすく掲載した。

こうして吉原細見は吉原のすべてがぎっしりと詰まった総合情報誌となって、吉原遊びには欠かせないものになりました。

蔦屋の店(『東都遊』淺草庵市人著・葛飾北斎画、享和2年(1802)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
(『東都遊』淺草庵市人著・葛飾北斎画、享和2年(1802)国立国会図書館デジタルコレクション)

吉原の町のことならなんでも載っているので、初めての人でも細見を手に大門に立てば、あたかも馴染みのように振舞うことができるという優れもので、なおかつ懐具合に合わせて事前に検討できる便利さがあったのでした。

まさに江戸っ子のニーズを深く理解した蔦重ならではの仕事といえます。

さらにすごいのは、吉原細見があまりにもよくできていたので、昭和33年(1958)の売春防止法施行によって吉原遊郭が消滅するまで、少しづつスタイルを変えつつも四季折々に発行し続けられた事実にあります。

定期的に発行し、しかもそれが安定的な売り上げにつながる吉原細見は、蔦重の出版ビジネスを支える存在となったのです。

今回は大成功した蔦重のビジネスのうち、吉原細見についてみてきました。次回では蔦重のもう一つの成功についてみていきたいと思います。

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