前回まで見てきたように、幕末の「八月二十八日の政変」で事態は急変しました。
そこで今回は、混迷する時代の中で苦慮する津山藩と、その一方で大活躍する確堂の姿を見ていきたいと思います。
第一次長州征伐
勤皇に反論が傾くなか、津山藩が国事斡旋の内勅を受けた翌年の元治元年(1864)、こんどはなんと長州征伐(第一次)で幕府から山陰口の指揮を命じられて、先の内勅との間で板挟みとなってしまいます。
津山藩の勤皇派は、鞍懸寅二郎や井汲唯一などを通じて長州藩との太いパイプを持っていましたので、長州藩の事情がよく理解できました。
先述の内勅もありましたので、勤皇派は藩主を説得して幕府に長州征伐中止の建白書を提出するという長州萩藩へ好意的な態度で臨むいっぽうで、安芸国にまで出兵することにします。
建白書が功を奏したのか、長州征伐自体は早々に長州藩が降伏して藩主父子が罪に服したのですぐさま中止になりました。
その一方で、藩内保守派は勤皇派の力を削ぐために、同年八月に小豆島でイギリス軍艦船員による住民射殺事件が起こると、鞍懸にその処理を命じます。
これにより、藩内の保守派優位が決定的となるのですが、鞍懸の業績にも触れておきましょう。
小豆島事件
先述の元治元年(1864)8月小豆島で発生したイギリス軍艦船員による住民射殺事件は、四国連合艦隊下関砲撃事件に参加したイギリス軍艦が、作戦後に小豆島で休養していた折、その船員の一人が地元の少年を射殺した事件です。
四国連合艦隊下関砲撃事件直後とあって、イギリスの外交的圧力の前に屈服し続けていた幕府は事件解決に消極的でしたが、鞍懸が奔走してようやく英国公使と交渉し、謝罪と賠償金・洋銀二百枚を得ることに成功したのです。
事件の調査こそできませんでしたが、幕末の外圧下ではまさに快挙といってよい成果、しかし、なんとこの後に保守派色の強まった藩から鞍懸は左遷されてしまいました。
付け加えると、鞍懸は賠償金を全額、被害者遺族の救済と生活再建にあてていることもまた、忘れられないところです。(以上『津山市史』)
第二次長州征伐
幕末の動乱に翻弄される津山藩に話を戻しましょう。
その後、再び長州藩が反抗的な態度を示したために、慶応2年(1866)には再度の長州征伐(第二次)が興されて、今度は津山藩に山陰口の指揮を執るよう命じられて安芸国まで出兵します。
当初の長州藩に配慮した姿勢から幕府支持へと180度変わった津山藩の対応に周囲からは疑念を抱かれるのも自然のことといえるでしょう。
ところが、高杉晋作率いる奇兵隊の活躍などもあって幕府軍は大敗、将軍家茂の死去もあって長州征伐は中止に追い込まれたのはみなさんもご存じのところです。
確堂斉民の大活躍
じつはこれより先に、慶応元年(1865)には確堂斉民が十四代将軍家茂からの命で参内、公武合体を任す旨の勅を受けています。
確堂としては、津山藩の藩論が公武合体・佐幕なのは当然のこと、拝勅したのは言うまでもありません。
残念ながら公武合体の活動はかないませんでしたが、今度は慶應4年(1868)1月鳥羽伏見の戦いが起こって幕府の敗北が決定的になって江戸の危機が迫る状況になると、4月には確堂に皇女和宮内親王の守衛が命じられます。
そこで確堂は江戸に下って、徳川慶喜が上野寛永寺に退去して謹慎した後、田安慶頼とともに江戸城留守居を務めました。
そして明治元年(1868)4月11日に新政府軍へ江戸城を明け渡したあとは、十六代当主となった幼い亀之助(のちの家達(いえさと))の後見人となって、その養育に従事することになります。
ちなみに、十五代将軍慶喜も娘の養育を委ねるほど確堂斉民を厚く信頼して(『華族総覧』)、確堂斉民が徳川家一門の長老として徳川家を護る大仕事を成し遂げたのです。
明治になっても確堂斉民は、天璋院篤姫とともに亀之助の養育につとめた結果、亀之助は見事に成長して家達(いえさと)を名乗ります。
その後、公爵に叙せられた徳川家達は、貴族院議長やワシントン軍縮会議の全権代表を務めるなど、近代日本を代表する大政治家になったことはご存じの方も多いかもしれません。
こうして確堂は、幕府の瓦解とともに消滅の危機にあった徳川家を守り切るだけでなく、見事に再興させて新しい時代につないだ事績は、まさに比類のない働きといえるでしょう。
津山藩の困惑
確堂斉民が八面六臂の大活躍をみせる一方で、津山藩は厳しい立場にありました。
藩の頭越しに朝廷や新政府から次々と重要な任が確堂斉民に下されることに、津山藩は大いに困惑します(『津山市史』)。
結局反論は二転三転してまとまらず、藩が安定しないことが波及して、領内では人心が乱れて一揆が頻発する事態にまで悪化していたのです。
大政奉還と王政復古の激動の時期も、領内は不安、しかも藩主慶倫が病気になったことで、度重なる上洛要請にも応じられないあり様、混沌とする京都の情報を集めるので手いっぱいに。
しかも津山藩が尊王と佐幕で揺れ動いたことで、周辺の藩は不信感を抱く始末です。
加えて、文久3年(1863)の内勅を無視する形になっているのですから、新政府からも不審な目で見られるに至っては、かなり厳しい状況にあると言わざるを得ません。
こうして藩論がまとまらない中、慶応4年(1868)1月には鳥羽伏見の戦いで官軍が勝利すると、もはや幕府の敗北は疑う余地のないものとなります。
そして、因幡鳥取や播磨竜野藩からは新政府への参加を勧められますし、岡山藩からは武力で脅迫されて、津山藩の態度を明確にするよう迫られる事態になったのでした。
ここにいたってようやく津山藩は新政府への参加で藩論がまとまって、勤皇の志士として名をはせていた藤田十兵衛を牢から出して対応に当たらせることにしたのです。
そしてまだ新政府は津山藩への不信感がぬぐえなかったのか、佐幕色の強い山陰地方を平定するために、慶応4年2月に西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫使が派遣、その目的地の一つが津山とされたのです。
こうして新政府に参加することになった津山藩は、戊辰戦争の間、伏見の守護を命じられて150名を派兵、奥州にも30名を派遣しました。
こうしてなんとか命脈を保った津山藩ですが、年号が明治と改まると、日本の近代化にむけて次々と変革が行われることになっていきます。
そこで次回は、廃藩置県前後の津山藩についてみていきたいと思います。
コメントを残す