「将軍」足利惇氏の時代【維新の殿様・下野国喜連川藩(栃木県)足利(喜連川)家 ⑩】

前回は深い悩みを師・榊教授の導きで乗り越えて、学門に生涯をささげる決意をするまでを見てきました。

今回は、「年譜」をだどりながら、彼が偉大な学者へと成長する姿を見ていきましょう。

欧州留学

「昭和7年(1932)6月文部省在外研究員として「古代波斯語及び梵語学研究」のため仏・独・波斯国に滞在。この間に松前重義氏と親交を結ぶ。昭和10年(1935)8月帰国」

東海大学創立者の松前重義(Wikipediaより20210531ダウンロード)の画像。
【惇氏生涯の友となる東海大学創立者の松前重義(Wikipediaより)】

じつは惇氏の師・榊教授は欧州留学時の経験からイラン学研究の必要を談じ、「イラン語に限らず、印欧語全体を含む世界的な文化の究明」を目指していました。(「足利先生の面影」羽田明)

この留学は、「かねてからの榊博士の念願であったイラン学のわが国への導入のため、フランス・ドイツ・イランへ御留学、帰国後京都大学で初めてイラン学を講じられました。」(「訃報」社団法人日本オリエント学会)

惇氏襲爵、結婚、終戦から廃爵

昭和10年(1935)12月 襲爵を仰せ付けられ、子爵に叙される。足利家第二十六代当主を継承。

昭和12年(1937)6月 伯爵有馬頼寧氏次女澄子と結婚

有馬頼寧(国立国会図書館 近代日本人の肖像より)の画像。
【有馬頼寧(国立国会図書館 近代日本人の肖像より) 資産家大名華族にして政治家、競馬の有馬記念にその名を残しています。】

昭和17年(1942)3月 京都帝国大学文学部助教授に任じられる

昭和20年(1945)8月15日、敗戦。

昭和21年(1946)10月 昭和21年勅令第二六三号により適格と判定され(京都帝国大学文学部教員適格審査委員会)、そのまま京都大学に留まることができました。

昭和22年(1947)華族制度廃止にともなって、足利子爵家廃爵される。

京都大学教授就任

「昭和25年(1950)3月京都大学文学部教授に任じられる(梵語学梵字学講座担当)」

このあと、師弟二代にわたる悲願だったわが国で最初のイラン学の設立者となって、インド学およびイラン学においてわが国を代表する研究者となりました。

さらに、この足利惇氏のイラン学が織田武雄、宮崎市定、羽田明、そして中原與茂九郎らの研究とあいまって、西南アジア研究の隆盛をもたらしています。

惇氏とイラン学

その後も惇氏はオリエント学にける日本の空白部ぶりを痛感、後学を助けて自主独往させようと後進育成に努めるいっぽうで、その研究成果を発表する舞台として雑誌『西南アジア研究』へ経済的にも支援していきます。(「イラン学と足利先生、そして私と」伊藤義教)

昭和34年(1959)3月京都大学イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊委員会委員を委嘱される

昭和34年(1959)5月「居庸関」の共同研究により日本学士院賞を授与される。

昭和37年(1962)4月京都大学文学部長に任じられる(39年3月まで)

昭和39年(1964)京都大学イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊委員会委員並びに京都大学東南アジア研究センターにおける研究担当者としてイラン国およびタイ国に出張(39年12月まで)

東海大学時代

「昭和40年(1965)3月京都大学を定年により退職、京都大学名誉教授の称号を授けられると、東海大学教授並びに文学部長に就任、昭和42年(1967)東海大学学長に就任

昭和46年(1971)10月ペルシア帝国建国二千五百年祭および第二回国際イラン学会議に招待され、三笠宮殿下、江上波夫、深井晋司とイランに赴く

昭和50年(1976)1月東海大学学長退任

昭和51年(1976)5月初代会長三笠宮殿下のあとを受けて、二代目日本オリエント学会会長に就任」

惇氏、病に倒れる

「昭和52年(1977)11月自宅にて病で倒れ、東海大学付属病院に入院」

「御起床とともにたおれられ、右手、右足の自由を失われて長い闘病生活を送られた。」(「足利惇氏先生を偲ぶ」井本英一)

「昭和56年(1981)1月東海大学名誉教授の称号を受けられ、同年3月郷里栃木県喜連川名誉町民となる。」

惇氏死去

「昭和58年(1983)11月2日自宅にて死去、享年82歳。」

「最期は書斎で迎えられ、実に安らかな大往生であったと奥様から伺った。」(「足利惇氏先生を偲ぶ」井本英一)

牛込月桂寺の画像。
【牛込月桂寺】

「同年11月5日牛込月桂寺にて密葬、同年11月25日青山葬儀場において東海大学葬、三笠宮殿下直拝あそばさる、同年12月6日郷里喜連川龍光寺院にて町民葬、足利家歴代墓所にて納骨」

ここまで「年譜」に依りながら、学術面を中心に惇氏の人生を見てきました。

ここからは角度を変えて、『足利惇氏著作集 第三巻』に寄せられた証言を集めて、惇氏の人柄などを見ていきたいと思います。

「将軍」惇氏

惇氏は昭和7年のフランス留学中に、他の学生たちから「将軍」のニックネームで呼ばれていました。

「テヘランの学会で、ギールシュマン教授にお目にかかって、例の写真(註:惇氏に託された舞子の写真)をお渡しすると、目を細めて喜ばれ、「プロフェッスール・ショーグンによろしく」と云われた。(「足利惇氏先生を思う」樋口隆康)

惇氏が部長を勤めていた東海大学文学部の、しかも学科長・惇氏のもとにつとめることなったときのこと。「京都を離れるさい、恩師の宮崎市定先生が、「君もいよいよ足利将軍につかえることになるのだね」と言われた」(「二十年前のこと」吉川忠夫)

怒ることなくおおらかで、ユーモアがあり、まわりにいる人を笑顔にする、それでいて事に臨むときの決断力は強烈、学問への真摯な姿勢に驚嘆させられる、みなさんの手記を拝読すると、このような人物像が浮かんできます。

だからこそ、敬愛を込めて惇氏を「将軍」と呼んだのでしょう。

多趣味

父・於菟丸は多趣味でしたが、惇氏もまたこの点では引けを取らなかったようです。

「学者でよくそんな暇があったと思われる程、囲碁では有段者、清元の名取という趣味を持ち合わせて居りました。」「兄は独身時代、京都の南禅寺の側の豆腐屋に下宿して居り、講師、助教授をしておりました。従っていつの間にか豆腐の作り方を覚え、私達に喰べさせてくれたものです。」(「兄の想い出」足利峻)

多趣味なのは父・於菟丸譲りなのかもしれません。(第7回「足利子爵家の暮らしと子育て」参照)

松本清張『火の路』

専門分野では知らぬものがない「将軍」足利惇氏も、専門分野の特殊性ゆえか、一般の知名度が高いとはいいがたい状況に在りました。

この惇氏の名を広く一般に知らしめたのが、あの松本清張だったのです。

松本清張(『別冊文藝春秋』第46号より)の画像。
【松本清張(『別冊文藝春秋』第46号より)】

清張は『火の路』の中で、ゾロアスター教について、惇氏の研究成果をなんと6ページにわたって要約し、記しています。

文庫版解題によると、この作品は昭和47年(1962)に飛鳥・高松塚古墳の発掘調査が始まって「考古学ブーム」に沸き立つ中、昭和48年6月16日から翌49年10月13日まで朝日新聞朝刊に「火の回路」として連載され、単行本刊行時に改題されました。(「解題」藤井康栄)

この作品を読んでみると、推理小説なのですが、事件解決ではなく歴史的仮説を検証するという歴史推理を主眼としている風変わりなもの。

その仮説というのが、「日本の飛鳥時代にゾロアスター教が伝来し、飛鳥文化に影響を与えた」というなかなか刺激的なもの。

作中に研究者による研究成果の要約あり、「論文」ありという構成で、清張らしく随所に学会批判が盛り込まれるとともに、不遇の無名研究者へのオマージュがあふれています。

そんななかに、先に見た足利惇氏の研究成果の要約があるのですが、私が見たところ、清張にしては批判や毒のない抑えた記述になっていると感じました。

これは、わが国ではじめてイラン学を立ち上げたパイオニアとして、清張なりの惇氏へのリスペクトを感じるのですが、どうでしょうか。

松本清張『火の路』の画像。
【松本清張『火の路』単行本版と文庫本版】

いっぽうの惇氏本人は「ぼくの本から無断で引用するのはともかくとして、ぼくが言わない事まであたかも言ったかの如く勝手に作り変えるとは、あの男全く怪しからん奴だ。」(「足利惇氏先生の思い出」岩谷日出夫)

これって、「でもよく勉強してるな。」と続きそうな気がして、私には誉め言葉に聞こえてくるのです。

ちなみに、松本清張『火の路』は難解な内容にもかかわらずヒット作となって、ドラマにもなりました。

足利家の伝統を受け継ぐ

また、名門の当主として、長く続いた家の伝統を受け継ぐことも大切にしていたようです。

それに関して、驚くべき証言を見てみましょう。

「千代田之御表 流鏑馬上覧」(楊洲周延(福田初三郎、明治30年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「千代田之御表 流鏑馬上覧」楊洲周延(福田初三郎、明治30年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

昭和17年秋頃の話、家庭菜園に丹精していた惇氏に姿は、「鍬を揮い桶を担がれる先生の装束たるや、編笠に狩衣、指貫、つまりは家伝の鷹狩衣裳そのもの」(「「将軍」の御風格」大地原豊)

東海大学時代に、惇氏が研究室で持参のお弁当を食べる時に、食物のあたる先の部分が銀製で、食中に毒が含まれると直ちに変色する仕掛けの箸を使っていたのです。(「ブルゴーニュの赤ワイン」鈴木八司、「先生の思出」香山陽坪)

昭和51年3月頃、札幌駅では、「昭和十一年に起きた二・二六事件の際反乱軍兵士によって射殺された、時の内大臣斉藤実の遺品」である濃緑色のオーバーコートを大切に着ていた(「足利惇氏先生に想う」岩崎昭夫)のも、秘めたる思いがあったのかもしれません。

斎藤実(『斎藤実伝』斎藤実伝刊行会編(斎藤実伝刊行会、昭和8年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【斎藤実『斎藤実伝』斎藤実伝刊行会編(斎藤実伝刊行会、昭和8年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

もちろん、旧華族間のつきあいも大切にしていました。

「(清元に)先生が誘ってくださって入門される方々は、藤堂さん岩倉さん等旧華族の方々」だったそうです。(「先生と師匠」清元正三郎)

足利家当主として

このように伝統を大切にしてきた惇氏ですが、さらに足利家当主として家名の再興を願う心があったようです。

戦後、一族の先祖の墓を探し出して参拝して供養していますし(「柏軒で聞いた話」佐藤長)、家督を継ぐときに、幼名である惇麿を惇氏と改名したのも、途絶えかけていた家の伝統を復活させたものです。

「それこそ尊氏自身が地下においておのれの株の上下を微笑をもって見ていることであろう。」(「私本と私」)と言いつつも、やはり心の片隅に悔しい思いがあったに違いありません。

「あの終戦で「自分の先祖足利家が、国賊の汚名から離れた。これが何よりうれしかった」とおっしゃった」(「品のよい碁」大石清夫)

父・於菟丸から託された足利家積年の願いは、華族足利家の最後に惇氏が学問の世界でみごとに果たしたのでした。

この文章を作成するにあたって、以下の文献を引用・参考にしました。

また、文中では敬称を略させていただいております。

引用文献など

『太政官日誌 明治紀元戊辰冬年十月 第百十四』太政官、1868

『太政官日誌 明治紀元戊辰冬十二月 第百七十一』太政官、1868

『改正華族銘鑑』長谷川竹葉編(青山堂、明治11年7月)1878

『華族部類名鑑』安田虎男(細川広世、1883)明治16年、

『華族名鑑 新調更正』彦根正三(博公書院、1887)、

『華族名鑑 更新調正』彦根正三(博行書院、1893))、

『華族名鑑』博文館、1894、

『最新華族名鑑』秀英舎編(秀英舎、1900))、

『最新華族名鑑』秀英舎編(秀英舎、1902)、

『最新華族名鑑 明治41年12月調』森惣之祐編(東華堂、1909))

『人事興信録初版』(人事興信所、1911)明治36年4月刊、

『人事興信録 2版』人事興信所編(人事興信所、1911明治41年6月刊)

『人事興信録 3版(明治44年4月刊)皇室之部、皇族之部、い(ゐ)之部−の之部』人事興信所編(人事興信所、1911)

『華族名簿 大正5年3月31日調』(華族会館、1916大正5年)、

『華族名簿 大正6年3月31日調』(華族会館、1917大正6年)、

『華族名簿 大正13年5月31日調』(華族会館、1924大正13年)、

『華族名簿 大正14年5月31日調』(華族会館、1926大正14年)、

『華族名簿 大正15年4月30日調』(華族会館、1926)、

『華族名簿 昭和2年4月30日調』(華族会館、1929)、

『華族名簿 昭和3年5月31日調』(華族会館、1929)、

『華族名簿 昭和4年5月31日調』(華族会館、1929)、

『華族名簿 昭和5年5月31日調』(華族会館、1932)、

『華族名簿 昭和9年5月20日調』(華族会館、1934)、

『華族名簿 昭和10年5月31日調』(華族会館、1935)、

『人事興信録 4版』人事興信所編(人事興信所、1915)、

「清和源氏義家流 喜連川」『寛政重修諸家譜 第1輯』国民図書、1923

『華族名簿』昭和18年7月1日現在(華族会館、1943)、

「廃城一覧」森山英一『幕末維新大事典』小西四郎監修、神谷次郎・安岡昭男編(新人物往来社、1983)

『角川日本地名大辞典 9 栃木県』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1984)

「尊氏と私」「嫌だった子供の頃」「京都と鎌倉」「私本と私」「尊氏とわが家」「感想」「わが図書館の思い出」「三十五年の梵語研究から-定年に思う」「若き日の札幌の思い出」「わが幼年時代」「わが細く遥かなる道」「足利家衰老記」足利惇氏/「足利さんを想う」羽田明/「イラン学と足利先生、そして私と」伊藤義教/「ブルゴーニュの赤ワイン」鈴木八司/「足利惇氏先生を偲ぶ」井本英一/「訃報」社団法人日本オリエント学会/「兄の想い出」足利峻/「足利惇氏先生に想う」岩崎昭夫/「足利惇氏先生の思い出」岩谷日出夫/「品のよい碁」大石清夫/「道を語られた先生」大金眞人/「「将軍」の御風格」大地原豊/「先生の思い出」香山陽坪/「先生と師匠」清元正三郎/「足利惇麿さん」毛塚嘉平/「惇氏さんの思い出」榊米一郎/「柏軒で聞いた話」佐藤長/「偲ぶ中興への情熱」澄川晴大/「足利惇氏さんの思い出」富田佑/「足利先生の面影」羽田明/「足利惇氏先生を思う」樋口隆康/「兄を偲ひて」森山彰子/「惇兄のこと」遊上尚麿/「二十年前のこと」吉川忠夫/「喜連川文書について」高塩武一『足利惇氏著作集 第三巻 随想・思い出の記』足利惇氏(東海大学出版会、1988)

「足利氏満」「足利氏」「足利成氏」「足利高基」「足利晴氏」「足利政元」「足利持氏」「足利基氏」「足利義明」「足利義氏」「小弓御所」「鎌倉公方」「古河公方」『国史大辞典』国史大辞典編集委員会(吉川弘文館、1979~1997)

『平成新修 旧華族家系大成』霞会館華族家系大成編輯委員会編(社団法人霞会館、1997)、

「喜連川藩」徳田浩淳『三百藩藩主人名事典 第1巻』藩主人名事典編纂委員会編(新人物往来社、1995)

『江戸幕藩大名家事典』小川恭一編(原書房、1992)

「下野国喜連川藩喜連川(足利)家」『江戸時代全大名家事典』工藤寛正編(東京堂出版、2008)、

『華族総覧』千田稔(講談社、2009)

「解題〈火の路〉」藤井康栄『火の路』(下)松本清張(文蓺春秋社、2009)

「喜連川藩」大嶽浩良『藩史大辞典 第2巻 関東編〔新装版〕』木村礎・藤野保・村上直(雄山閣、2017)

早稲田大学HP早稲田大学百年史

参考文献

『華族家庭録 昭和11年12月調』華族会館編(華族会館、1937)

『角川日本地名大辞典 13 東京都』「角川日本地名大辞典」編纂委員会・竹内理三編(角川書店、1978)

神谷次郎「戊辰戦争における三百藩動向一覧」『幕末維新大事典』小西四郎監修、神谷次郎・安岡昭男編(新人物往来社、1983)

「喜連川藩」徳田浩淳『三百藩家臣人名事典 第二巻』家臣人名事典編纂員会(新人物往来社、1988)

『火の路』(上・下)松本清張(文藝春秋社、1975)

「解説『火の路』(下)解説と付言」森浩一『火の路』松本清張(文蓺春秋社、2009)

次回からは、維新の殿様・大名屋敷を歩く、下野国喜連川藩足利(喜連川)家編をおとどけします。

また、トコトコ鳥蔵ではみなさんのご意見・ご感想をお待ちしております。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です