【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?/②花と言えば梅?桜?/③「花は桜木 人は武士」/④花見の革命/⑤花見は幕府の陰謀?/⑥花見の完成
前回まで見たように、貴族の間では桜をめでる花見がとても盛んでした。
このことは武士たちにも大きな影響を与えます。
今回は武士たちの花見についてみてみましょう。
「花は桜木 人は武士 柱は檜 魚は鯛 小袖はもみじ 花はみよしの」とは一休宗純(1394~1481)のことばと言われています。
このように、散り際の潔さや美しさから武士は桜を尊びました。
ですので、武士たちが一族郎党を引き連れて、山野に幕を張り毛氈を敷いて酒や茶を楽しむ野宴が盛んに行われたのでした。
そしてこの花見が、一族郎党の結束を固める役割をも果たしていたようです。
例えば、歴史上有名な豊臣秀吉による吉野の花見と醍醐の花見は、この武士たちの野宴の系譜に連なるものなのです。
吉野の花見は、文禄3年(1594)旧暦2月27日(新暦4月17日)に豊臣秀吉が徳川家康や伊達政宗などの武将をはじめ、茶人や連歌師など総勢5千人もの供を引き連れての盛大で豪華絢爛なものでした。
醍醐の花見は、慶長3年(1598)旧暦3月15日(新暦4月20日)に京都の醍醐寺三法院の裏山で行った花見の宴です。
秀吉が幼い我が子・秀頼をはじめ北政所や淀君などの近親者をはじめ、諸大名やその配下、さらにはその女房など、総勢1,300人を従えた盛大な催しでした。
豊臣秀吉による豪華絢爛な花見は吉野や醍醐の桜の名所としての名声とともに、春の行事としての花見の地位を高めることになりました。
その後、秀吉政権の後を受けた徳川幕府でも花見の伝統は引き継がれ、幕府の行事の一つとして花見の節が行われるようになっています。
しかし、幕府の行った花見は秀吉の花見とは異なり、江戸城内で行うもので、宮中行事の影響を強く受けたものでした。
ここまでは中世までの貴族と武士の花見を見てきました。
ただし、これは上流階級に限定されたもので、現代の身分や序列を問わない花見とはかなり違ったものとなっています。
次回では、現代の花見の誕生について見ていきたいと思います。
【花見と桜の歴史】①花見の謎、桜の罠?/②花と言えば梅?桜?/③「花は桜木 人は武士」/④花見の革命/⑤花見は幕府の陰謀?/⑥花見の完成
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