『3月のライオン』と天童【維新の殿様・織田家出羽国天童藩(山形県) ①】

「人間将棋なんて風流よねぇ 広い公園で 甲冑や着物を着てするんでしょ? 桜の下できっときれいよ」

「満開の桜ときれいな青空 緑の山々‥‥‥ すてきねぇ‥‥」(『3月のライオン』)

これは、川本3姉妹の長女・あかりが思わずもらした、天童の人形将棋を想像してのセリフです。

『三月のライオン』3~5巻表紙の画像。
【『三月のライオン』3~5巻表紙 天童のシーンは5巻に出てきます。】

『3月のライオン』は羽海野チカ原作、天才棋士・桐山が川本3姉妹はじめ、ライバルや先輩棋士たちとこ交流を通じて成長する姿を描く人気作品です。

この原作5巻、アニメの第21話に出てくるのが天童の人間将棋のシーン。

主人公の師匠である島田八段が、宗谷名人との獅子王戦対局で完敗し、疲弊し切ったところを故郷天童の人々に温かく迎え入れられ、前に進む勇気をよみがえらせる感動のエピソードへと続いていく私の好きな話です。

ところが子供は大爆笑、「なに、これ。駒が人なの!戦うの?」

そういえば、人間将棋ってなってなんでしょう?

天童市観光パンフレット掲載の『3月のライオン』桐山零と仲間たちの画像。
【天童市観光パンフレット掲載の『3月のライオン』桐山零と仲間たち】

人間将棋のはじまり

伝説では、豊臣秀吉が伏見城で行ったのが始めとされていますが、駒については小姓や腰元、あるいは武将を使ったといくつかの説が見られます。(『日本将棋集成』『将棋の博物誌』)

確かに、加藤清正や福島正則が武者姿の駒を秀吉が命令して動かすなんて場面があれば、なかなか見ごたえがあるでしょうし、まさに将を駒として使う秀吉の権威も高まること請け合いです。

いっぽうで、着飾った小姓や腰元を駒にするなら、その華麗さは筆舌に尽くしがたいものがあったに違いありません。

どちらの説にせよ、さすがは秀吉と言ったところでしょうか。

「太閤秀吉」『肖像 一之巻』野村文紹 国立国会図書館デジタルコレクションの画像。
【「太閤秀吉」『肖像 一之巻』野村文紹 国立国会図書館デジタルコレクション】

人間将棋その後

その後、江戸時代に入って太閤秀吉をまねた大阪の豪商たちが、将棋の駒を染めた着物を着せて遊びましたし、江戸時代の終わりには天童藩主が人間を駒に見立てて対局したこともありました。(『日本将棋集成』)

その後も、明治43年(1900)に阪田三吉が大阪文楽座で三日間「人間将棋」を公演して連日の大入り満員となったとか、昭和23年(1948)に甲子園球場で青空人間将棋大会が開催されて、大山康晴と松田達夫が対戦するなど、人間将棋は根強い人気を誇りつづけています。(『将棋の博物誌』)

「一の谷見立 将棋合戦」〔部分〕(一寿斎芳員(伊勢兼、万延元年)国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「一の谷見立 将棋合戦」〔部分〕一寿斎芳員(伊勢兼、万延元年)国立国会図書館デジタルコレクション 】

そうした背景があって、昭和31年(1956)から天童の桜祭りにおいて故事を再現したのが天童の人間将棋というわけです。(『日本将棋集成』)

会場となる舞鶴山公園は祭りの開かれる4月ともなると、二千本を越えるソメイヨシノが満開となって、吉田大八考案の「将棋太鼓」が鳴り響くなか、花駒おどりも披露されて豪華絢爛、みんなで春の一日を謳歌するのだそうです。(『将棋の博物誌』)

このように、おだやかで華やかな天童ですから、さぞやその歴史もバラ色だろうと思いきや、調べてみると波乱万丈、度重なる取り潰しの危機をかいくぐってきたというから驚きです。

それに、どうして天童で将棋の駒を作るようになったのかも気になるところ。

そこで今回は、天童藩織田家の歴史を見ていくことにしましょう。

織田家の歴史

一代の英雄、織田信長が天下統一を目前に控えた天正10年(1582)、京の都・本能寺で明智光秀によって嫡男信忠とともに無念の死を遂げました。

「織田信長画像」(『愛知県史-第1巻』愛知県、1935-国立国会図書館デジタルコレクション)の画像。
【「織田信長画像」『愛知県史-第1巻』愛知県、1935-国立国会図書館デジタルコレクション】

これが名高き「本能寺の変」、ここに信長の野望は潰え、その後天下を豊臣秀吉が見事にたぐり寄せるのはみなさんもご存じでしょう。

しかし、桓武天皇の子孫たる桓武平氏の流れを汲む名門・織田家はそこで滅びたわけではありませんでした。

信長の次男信雄は秀吉から清州城を与えられて、尾張・伊賀・南伊勢四郡のおよそ百万石を領する大大名になります。

ところが、天正18年(1590)の小田原の陣後に豊臣秀吉から徳川家康の旧領の三河・遠江・駿河三国への転封を命じられると、なんと信雄はこれを拒否!

当然秀吉は激怒して信雄は下野国烏山に配流されてしまいます。

ここは徳川家康がとりなしてなんとか秀吉の勘気を解き、信雄は相伴衆となって生き残ることができました。

織田信雄(Wikipediaより2020.8.17ダウンロード)の画像。
【織田信雄(Wikipediaより)】

そして秀吉の死後、関ヶ原の役では大坂・天満にいた信雄は大坂の状況を家康に伝え、大坂夏の陣では豊臣秀頼の救援依頼を断って、徳川家に忠誠を尽くします。

これらの働きが評価されて、信雄は家康から元和2年(1616)7月23日に、大和国宇陀、上野国甘楽・多古・碓氷の四郡で合わせて五万石を与えられました。

信雄は大和国宇陀郡松山に居所を定めて松山藩を立藩、ここに織田家を再興したのです。(『寛政重修諸家譜』『全大名家事典』)

ここまで天童と将棋のかかわりから、のちに天童藩主となる織田家の歴史を見てみました。

次回は、小幡藩時代の織田家を見ていくことにしましょう。

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