新型コロナで首相や知事のリーダーシップが何かと話題になる昨今、ふと前の職場で聞いたことを思い出しました。
長野県飯田市出身の同僚と飯田の街を歩いていた時、彼がポツリとこういったのです。
「飯田では、愚鈍というか、かなりダメな人が、しかも幕末の大変な時に殿様だったので、住民はひどく苦労したそうですよ。」
ダメ殿ってどんな人だったのでしょうか?ちょっと気になりますよね。
そこで、今回は信州飯田藩の幕末と近代についてみてみましょう。
堀親義のダメ殿伝説
さて、ダメ殿はどの人か探してみると・・・時期的には信濃飯田藩堀家第十一代当主・堀親義(ほり ちかよし・1818~1880)のことでしょう。
夫人はなんと水野忠邦の妹、親義の父で先代藍藩主・親寚(ちかしげ)が、天保の改革を推進した水野忠邦の右腕だったのですね。
水野忠邦が失脚した際に父・親寚も逼塞となり、弘化2年(1845)9月2日に家督を継いでいます。
それから慶応4年(1868)までのおよそ24年間、飯田藩藩主を務めました。
その治世はまさに、嘉永6年のペリー来航から、大政奉還までという、まさに幕末の動乱期にあたっています。
ネットなどでは、自分の服を下賜しないで売るほど溜めこんでたといった親義のケチ伝説や信じられないようなエピソードが満載ですが、実際のところはどうでしょうか。
ちなみに、親義の読みですが、『平成新修旧華族家系大成』など一部文献で「ちかのり」となっていますが、「堀氏家譜」など多くの文献は「ちかよし」としていますので、こちらに従いたいと思います。
頻発する一揆や騒動
親義の藩政がよくなかった証拠としてあげれるのが、領内で一揆や騒動が頻発した事実にあります。
たしかに、嘉永3年(1850)11月には笠松山騒動、二年後の嘉永5年(1852)11月には阿島で騒動、安政6年(1859)には南山騒動、慶応年間は毎年のように打ちこわし・米騒動が起こるなどと、大規模な一揆が頻発しています。(『長野県の歴史』)
でもこれ、ちょっと詳しく見てみると、たとえば嘉永3年11月の笠松山騒動は、入会山とされてきた笠松山の山林資源を藩役人が勝手に利用しようとしたことで百年以上ごたついてきたものです。
ついに住民が一揆したことで、藩があわてて撤回、沈静化しています。(『新編物語藩史』)
安政6年の南山騒動は、飯田藩が親寚逼塞時に幕府に召し上げられて白川藩領となった市田六ヵ村で起こった一揆で、飯田藩が調整役となって収束させました。(『長野県の歴史』)
どうやらこれらの件は親義のせいばかりではなさそうです。
親義は時代錯誤?
また、嘉永2年1月には新しく考案した新式鉄砲を将軍に献上して将軍から鞍と鐙を拝領しています。(『徳川実紀』)
でもこの頃すでに、高島秋帆によって西洋式の砲術、当時の言い方で炮術が伝えられていますので、確かに時代錯誤な印象ですね。
じつは、将軍に献上した銃というのが「家蔵ノ車仕掛大砲二挺」(「堀氏家譜」)で、以前に堀家で独自に改良して秘蔵していたもののようです。
天狗党通過
親義治世の極めつけは、元治元年(1864)11月23~24日に武田耕雲斎率いる水戸浪士の武装集団「天狗党」が飯田を通過した事件です。
当時、親義は江戸在府で不在、そこで藩は領内で盛んだった平田国学の信奉者たちが熱心に支援していたことや、先に和田峠で諏訪藩と高遠藩が敗れていることを考慮して、なんと、なにもしなかった!
天狗党来たるの一報に藩内は大いに動揺して、藩の槍指南の者まで手足が震えて草鞋のひもも結べない有様で、百姓の笑いものになったといわれています。(『新編物語藩史』『長野県の歴史』)
この一件、対応が極めて難しいことは言うまでもありません。
武田耕雲斎率いる天狗党は、京都を目指して行軍する千人を超える精強な部隊ですので、飯田藩が単独では全力でかかっても勝ち目はないでしょう。
戦うと甚大な被害が出ること間違いなし、だからといって通交を黙認すると、当然幕府からの厳しい処分が待っています。
そこで、松尾多勢子をはじめとする領内の農民国学者たちが天狗党を勝手に支援しているのをいいことに、飯田藩は城と主要街道の大平峠を固めていたが脇道を通行してしまった、というストーリーを用意したのです。
予想通り戦闘を避けて被害を出さなかったのは良かったとして、このような小細工は通用するはずもありません。
12月に急遽帰国した親義は、この事態に家老の減給と関守の処刑で済まそうとした。
ところが、清内路関所が高遠藩に引き渡しとなったうえ、領地の内二千石を召し上げられて一万五千石となり、親義は逼塞させられてしまいます。
天狗党通過の一件は、親義が江戸在府中だったとしても、国元に明確な指示を出さなかったのは確かに責められても仕方がないところ。
しかし、明治になって天狗党が大いに顕彰されるのを知っている私たちからすると、わが身と引き換えに犠牲を最小限に抑えたのならば、なかなか良い選択のようにも思えてなりません。
上方警固で孝明天皇に拝謁
この後、慶応元年(1865)に親義は許されて復帰するとともに、大坂方面の警固を申し付けられています。
そしてこの時に孝明天皇に拝謁し、軍制を改革するよう勅を受けたことにより、慶応3年(1867)5月に親義は西洋銃隊に軍制を改革しました。(『新編物語藩史』)
また大坂警固中の慶応2年(1866)には、神戸・生田の森に本陣を置くとともに、楠木正成を祀る湊川神社に飯田藩士66名で夜灯を献じています。(『三百藩藩主人名事典』)
その後、大政奉還を目の前で見届けた後、新政府の東山道鎮撫使岩倉具視が出発した折に大津まで見送っています。
付け加えておきたいのは、親義は藩論を常に中立に保った事実です。
信州は佐幕色が強いところでしたが、天狗党のところで見たように飯田藩内の領民には平田国学者が多く勤皇派が多数いましたので、その中間をとったということでしょうが、これによって藩内での両派の抗争は抑えられたのです。
そして大政奉還がなされると、飯田藩のような小藩では主体性を維持するのは困難とのことで、ようやく藩論は勤皇に決したのです。
その後、慶応4年(1868)3月7日に親義は京都で隠居して家督を養子親広に譲って飯田に帰りました。
こうしてみてくると、名君とよばれた親寚の後ですし、石高が一万七千石に減らされた状態なうえに、幕末の動乱期、多事多難なのは飯田藩には限らないことですし、信州飯田の地理的条件も気になるところです。
それでもやはり堀親義は噂通りのダメ殿なのでしょうか?
また、開国を契機とした幕末の狂乱物価など、飯田藩にとどまらない問題が背景にあることを考え合わせると、改めて広い視野から見る必要があるように思えます。
そこで次回からは、飯田藩と堀家の歴史をたどってみましょう。
初めまして、最近、下伊那に引越してきて、飯田藩に関する記事を拝見しました。
本当に勉強になりました!
飯田藩に関する資料を探しはじめたところ、当記事を見つけて、幕府での飯田藩の立ち位置やその後を確認出来て、参考になりました。
飯田近辺に来たので、ご縁という事もあり、飯田藩について調べて行きたいので、情報があれば、ご教授願います。
大変、良い記事でした。