前回みたように、鑑任治世には享保の改革が進められて、さまざまな施策が行われました。
そのうちの一つとして、享保6年(1721)家老小野春信が三池郡平野山で炭鉱を開き、ここに名高き三池炭鉱がはじまったのです。
そこで今回は、三池炭鉱の歴史を概観してみましょう。
小野春信(おの はるのぶ・1683~1754)
春信は、天和3年(1683)に立花勝兵衛虎良の子として柳川で生まれました。
四代藩主鑑春、のちの鑑任の諱を下賜されて春行、あるいは春信と名乗ります。
その後、鑑任の命で、代々藩の家老職を務める小野の養嗣子となり家督を継いだのです。
元禄16年(1703)11月23日に元禄地震が発生すると、江戸城でも大きな被害が出てしまいます。
すると、柳川藩が江戸城修復の国役を命じられ、春信が惣奉行を務めて大いに活躍し、無事翌元禄17年(1704)に竣工することができました。
そして宝永元年(1704)に春信は家老職に就き、藩主を補佐することになります。
享保6年(1721)に、春信にたいして藩政上の功労により、藩主鑑任から三池郡平野村のうち山林数百町歩を采地として与えられたのです。
「燃ゆる石」
じつは春信が与えられた土地は、ただの山林ではありませんでした。
戦国時代はじめの文明元年(1469)に、三池郡稲荷(とうか)村の農夫伝次左衛門が、焚火が黒石に着火するのをみて、稲荷山で「燃ゆる石」を発見したと伝えられています。
その後、里人が自由に採掘してこの石を用いていました。
平野山開坑
享保6年(1721)にこの采地の平野山、現在の高取山で焚石、つまり石炭の採掘をはじめます。
その後、さらに梅谷・満谷・大谷・本谷・炉谷・西谷の平野山六抗の基礎を築きました。
地元では、この平野山炭山を「小野さん山」、産出された石炭を三池炭とよんだのです。
ちなみに、安政3年(1856)には、三池藩が稲荷山の隣にある生山に石炭山を開坑していました。
石炭の価値
その後、石炭は燃料として商品となっていきます。
寛保2年(1742)9月の「諸運上改」によると、石炭棒一本の運上は一匁五分とあり、これは塩鰯棒一本の運上六匁と比べると、わずか四分の一にしかなりません。
とはいえ、新しい特産品が誕生し、藩の利益にもなったのですから、これは藩にとっても有意義なことだったのです。
じつはこのころ、石炭は煮炊きに使う燃料として使われているにすぎませんでした。
幕末の炭抗
ところが江戸後期になると、瀬戸内海沿岸を中心に盛んだった製塩業に石炭が大量に使われるようになります。
幕末の平野山六抗の石炭産出量は平均2万5,000トンにもおよび、販路は旅出(地域外への輸出)6に対して地回(地元販売)4の割合でした。
この結果、藩に冥加金として年間11両を収めるようになったのです。
この当時は問屋9軒、番船14艘が石炭販売にあたる体制でしたが、のちに横須に浜会所を設けて販売の権利を委任するようになっています。
三井三池炭鉱
その後、開国にともなって蒸気船が増えると、その燃料として石炭の需要が急増し、平野山六抗でも最盛期を迎えます。
明治新政府が発足すると、石炭は国家にとって戦略的重要物資ですので、明治6年(1873)に石炭山直営仕法をとることにして、日本抗法が公布されたのです。
これにより、地上権は小野家、地下権は政府が持つこととなって、明治6年9月に小野隆基より政府が1万5,000両で梅谷・炉谷・本谷の三抗を買い上げて官営とし、他の三抗は休・廃抗としました。
さらに政府は、明治21年に入札で梅谷など三抗を民間に払い下げると、これを三井組が落札したのです。
これがのちに三井三池炭鉱に発展し、日本の近代工業発展を支えていくことになりました。
このように、四代藩主立花鑑任の治世に開かれた平野山炭抗が三井三池炭鉱に発展していきました。
近代にまでおよぶ日本にとって重要な産業を興すきっかけをつくった実績は、高く評価されるにふさわしいものといえるでしょう。
今回は、四代藩主鑑任治世の事績の一つ、平野山炭抗についてみてきました。
次回は、三代鑑虎から五代貞俶まで最盛期を迎えた有明海干拓についてみてみましょう。
《今回の記事は、『福岡県史』『福岡県の歴史』『三百藩家臣人名事典』『角川日本地名大辞典』『国史大辞典』にもとづいて執筆しました。》
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