7月4日は、1868年(慶応4年=明治元年5月15日)に上野に屯所を置く彰義隊を、明治新政府軍が攻撃して上野戦争が起こった日です。
そこで、上野戦争について、改めてみてみましょう。
彰義隊結成
慶応4年年(1868)2月12日以降、江戸では、雑司ヶ谷の茗荷屋酒楼や四谷の鮫ヶ橋円応寺などに新政府に従わない者たちが、およそ10~60人ほど集まっていました。
そこで2月23日には浅草本願寺で、これらを集めた組織がつくられ、彰義隊と名付けられたのです。
頭取は渋沢成一郎(喜作)、副頭取に天野八郎、幹事に本多敏三郎(晋)と伴門五郎、須永於兎之輔(伝蔵)などが就任しました。
彼らは、江戸市中の巡邏警衛にあたりましたが、やがて寛永寺大慈院で謹慎していた十五代将軍慶喜の護衛を名目として、浅草から上野に屯所を移します。
4月11日に江戸城を無血開城が行われ、徳川慶喜が水戸へと去ったにもかかわらず、関東の各地で旧幕臣や反政府の各藩脱走士らが反政府の抵抗を繰り広げました。
さらに、一揆や打ちこわしも各地で頻発し、反政府に立つ武士と農民が合流する事態まで起こったのです。
こうした中で、関東において彰義隊は反政府の中心的存在となり、新政府にとって極めて危険な存在となりました。
ところが、渋沢と天野の意見対立が起こり、渋沢が脱退して、彰義隊の実権を天野が掌握すると、組織を整備し、遊撃隊や歩兵隊などの多くの附属隊を持つようになります。
こうして上野に参集した旗本・浪人は3,000人にも達して、新政府軍としばしば小競り合いを起こすようになりました。
この状況に、彰義隊が徳川家に類を及ぼすことを畏れた勝海舟をはじめとする旧幕府の有志は、彰義隊にたびたび解散を命じるものの、これを無視。
さらに、覚王院義観ら主戦論者の扇動もあって、新政府と彰義隊との対立は深まるばかりとなったのです。
上野戦争
関東において、新政府の威信は揺らぎ、中には江戸城放棄を主張するものまで現れる始末となります。
そこで新政府は、上野彰義隊の討伐を決意し、軍防事務局判事大村益次郎が江戸に着任すると、ただちに大総督府により田安慶頼らを江戸取締りの役目を解任したのです。
ついに新政府軍は、大村の作戦計画に従って、新政府軍およそ2,000人で上野を包囲しました。
いっぽう、これを迎え撃つ彰義隊は、輪王寺宮公現親王を要して上野に籠り、この時の兵力は1,000人程度だったといいます。
西郷吉之助(隆盛)が率いる薩摩軍が正面の黒門口から進攻すると、天野八郎率いる隊が迎え撃って激戦となりました。
さらに、新政府軍は寛永寺の諸堂に放火したうえ、長州軍が不忍池越に砲撃しつつ本郷団子坂方面から進撃し、さらに他藩の兵も各方面から一斉に攻めかかったのです。
こうして新政府軍の猛攻の前に、わずか一日で彰義隊は壊滅しました。
輪王寺宮は品川から海路で仙台に脱出し、天野らは捕らえられましたが、一部は榎本武揚率いる旧幕府艦隊のもとに逃げ込み、東北方面へと向かうことになります。
江戸っ子と上野戦争
さて、歴史に名高い上野戦争ですが、江戸っ子たちはこれをどうみたのでしょうか。
高村光雲は、『幕末維新回顧談』で上野戦争当時をこう振り返っています。
師匠の使いで上の山下町へ向かうと、頭上をシュッシュと異様な音がすると思ったら、早くも戦争がはじまっており、この音が両軍のはなった小銃の弾丸がかすめる音と気づいて驚いた、と記しています。
また、最後の浮世絵師とも呼ばれる月岡芳年は、上野戦争で弟子たちを連れて裸で見物したことは、よく知られるところです。
たしかに、錦絵の題材にもなり、旧幕臣の奮闘を称える向きもありました。
しかし、旧幕臣にとっては命を懸ける一大事だった戦争も、古典落語の名作「蔵前駕篭」にみるように、江戸の庶民にとっては迷惑なだけの出来事だったのかもしれません。
のちに、会津戦争で新政府軍を指揮した板垣退助が、一般民衆が戦争に無関心なのに驚くとともに危機を感じ、これが自由民権運動につながった逸話は教科書にも掲載されています。
このように、「お上」と祭り上げて政治に無関心な状況は、当時の日本に広がっていました。
いっぽうで、目を転じてみると、現代の日本でも政治不信に由来する無関心が広がっています。
このままだと、上野戦争のように、市民のよく知らないうちに、「お上」が戦争をはじめるという事態が起こらないとも限りません。
(この文章は、『幕末維新懐古談』高村光雲(岩波書店、1995)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本史大事典』の関連項目を参考に執筆しました。)
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