前回まで新宮水野家九代忠央の時代をみてきました。
忠央は、領国にさまざまな地域の振興策を行っていますが、その一環となるのが洋式帆船の建造でした。
そこで今回は、新宮の技術を結集して作った第一・第二丹鶴丸についてみてみましょう。
大建艦時代
江戸時代に入ると、幕府は海外渡航を禁止したことや、軍事的要因から、大型船の建造を認めてきませんでした。
ところが、ペリー来航により海防が急務となると、幕府は200年続いた大型船建造の禁令を撤回して嘉永6年(1868)9月には諸藩にその旨を布告します。
こうして、幕府をはじめ各藩は次々と西洋型船の建造を始めたのです。
幕府の鳳凰丸、薩摩藩の昇平丸、蒸気船運行丸などが広く知られていますが、その流れのなかに新宮水野家の第一・第二丹鶴丸もあるのです。
「丹鶴丸図」
第一・第二丹鶴丸については、神戸大学海事資料館に木版画の「丹鶴丸図」2枚が所蔵されています。
また、同資料館の列品解説および補足説明が武田幸男「避雷針について」「避雷針について(その2)」および『新宮市誌』で詳しくのべられていますので、これによってみてみましょう。
造船の経緯と船の大きさ
水野忠央は、家臣の蘭学者津田出と大脇道輔に命じてオランダの造船書を翻訳させて、その記載にもとづいて三檣バーク型帆船の建造を命じます。
そして安政3年(1856)9月から洋式帆船の建造に取りかかります。
新宮船町の川原に造船場を建造し、新宮鍛冶仲間36人を作業に従事させました。
のちに造船場は池田町に移して、安政5年(1858)9月に大脇道輔を奉行として一之丹鶴丸が完成します。
つづけて、二之丹鶴丸も安政6年(1859)に完成しました。
船は長さ31.8m、幅6.66mの規模で、これは日本人によるはじめての太平洋横断で有名な咸臨丸とほぼ同じ大きさで、構造的にも同じものです。
ここで高田論文は、「丹鶴丸図」の打ちの一枚に、中央マスト頂部に「避雷針」が取り付けられていることに注目しています。
この図の制作年代が不明であるものの、国産で避雷針を取り付けたことがわかる古い例であるのは確かなようです。
第一丹鶴丸
まず第一丹鶴丸ですが、川口に浮かべて勝浦まで運行したものの、船が傾いて乗員が激しく船酔いしたそうです。
その後、砂利をバラストとすることでようやく傾きが解消されて、大脇道輔と中村順蔵が江戸へ航海させました。
この廻航ですが、実際に行ったのは福沢諭吉との親交で知られる宇都宮鉱之進(宇都宮三郎)が行っています。
さらに万延元年(1860)4月9日には江戸から回漕されて紀伊藩士80人が乗り組み、11日に「二本嶋から勝浦に到着、若水迄移乗それより四国に廻る筈」と廻航して運行訓練を行ったようです。
その後、長らく熊野川河口につながれ、船体の一部は第二次世界大戦ころまで残存していたといわれています。
第二丹鶴丸
第二丹鶴丸はというと、安政6年(1859)にはじめて川口に入ります。
万延元年(1860)10月に勝浦まで運行、さらに江戸へ向けて出発しています。
「後に同所にて讃岐侯へ払わる」とありますので、讃岐国高松藩に譲渡されたのでしょうか。
武田論文は、第二丹鶴丸がその後、伊予国松山藩に5,500両で売却されて、弘済丸と改名したとしています。
池田の造船業
こうして忠央が作らせた第一・第二丹鶴丸は、書物から得た知識のみ、しかも導入した技術は新宮鍛冶の持つ自前のもので作り上げたものでした。
こうして建造された二隻の船は、見事実用に耐えるものとなり、新宮鍛冶の技術水準の高さを証明したのはいうまでもありません。
新宮鍛冶の高い技術水準に深い信頼を寄せた忠央は、新たな産業として池田での造船業を発展させることを目論んでいたのかもしれません。
だからこそ、出来上がった船を格安で他国に売却したと考えることもできます。
武田論文では、近年まで池田付近には木造機帆船の造船所が数社残っていると報告があることから考えると、忠央の施策が花開いたとみてよいでしょう。
ここまで水野忠央が建造を命じた第一・第二丹鶴丸についてみてきました。
次回は、忠央から家督を嗣いだ10代当主忠幹の時代をみてみましょう。
《今回の記事は、武田幸男「避雷針について」「避雷針について(その2)」、『新宮市誌』、新宮市Webサイトに依拠して執筆しましました。》
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