前回みたように、大規模再開発で麻布我善坊町が丸ごと工事中だったので、五島子爵家麻布邸跡が見当たりませんでした。
そこで今回は、あらためて五島子爵家麻布邸についてみてみましょう。
五島盛光
五島盛主の養嗣子となった溝口直溥六男・歡十郎は、名を五島盛光と改めて、盛主が急逝したことにより、明治27年(1897)1月22日継承しました。(『平成新修旧華族家系大成』)
このとき、盛光は五島盛成の孫で近江国宮川藩堀田宗家の当主・堀田正養子爵の三女・善(明治11年(1878)7月26日生まれ)を妻に迎えています。
またこのとき、盛光はこれまで東京府牛込区牛込若松町43番地にあった五島子爵家の邸宅を(『華族名鑑 明治23年版』彦根正三(博行書院、1892))、東京麻布区我善坊町32に移ったのでした。(第41回「五島盛光登場」参照)
麻布我善坊町
我善坊町といえば、大正5年(1916)9月から大正8年(1919)10月のあいだ、政宗白鳥が住んだことで知られていますが、このころは借家が並ぶところでした。(『東京文学地名辞典』)
この「我善坊」というインパクトのある地名は、龕前坊が転訛したもの。
二代将軍秀忠の夫人、崇源院を葬ったときに、この谷で荼毘に付したのですが、龕(仏像を収めた厨子)の前に僧房を建てて、故人の冥福を祈ったのが名の由来とするのが通説です。
また、河東碧梧桐の「我善坊に 車引き入れ みる霰」の名句が詠まれた場所でもあります。(『東京の坂道』)
紀州徳川侯爵家と我善坊町
じつはこの我善坊町の土地は、前回にみた南隣に邸宅を構える紀伊和歌山藩徳川侯爵家の所有地で、借家を運営していました。(『東京市及接続郡部地籍台帳』)
徳川侯爵家の当主・徳川茂承の夫人広子は、盛光にとっては叔母にあたる女性です。
幼くして養子に出た甥のために、所有する邸宅を貸したとみてよいでしょう。
その後も盛光は、皇室まで広がる実家の大名華族ネットワークに支えられて、明治18年(1885)11月から明治22年(1889)までドイツに留学しています。
帰国して、明治33年(1900)家督を相続し襲爵(『人事興信録初版』)、さらに明治42年(1909)東京帝国大学法科大学を卒業して法学士の称号を得ました。(『人事興信録 3版』)
この間、明治30年(1897)4月には長女の知子、明治32年(1899)10月には三女の欽子、明治37年(1904)11月には長男の盛輝、明治38年(1905)12月には四女の和子と、東京帝国大学在学中に子供たちにも恵まれたのです。
五島盛光の我善坊での暮らしは、家族にも恵まれて大学にゆっくり通う穏やかなものだったといえるでしょう。
盛光の地元貢献
さらに、このころに郷土人材の育成を目的とした五島育英館を東京に開設し、旧領民の子弟に対して東京遊学の便を与えています。
そして、明治31年(1898)7月、南松浦郡五島中学校の設立が許可されると、五島中学校建設のため土地と多額の建築費を寄付しました。
これにより、明治33年(1900)4月に長崎県立五島中学校が旧福田城本丸に開校したのは前に見たとおりです。(第41回「五島盛光登場」参照)
これらの社会事業も、おそらく紀州徳川侯爵家にならったものなのでしょう。
盛光、麻布を去る
そして、明治42年(1909)に東京帝国大学を卒業した後、邸宅を東京府豊多摩郡代々幡村代々木283します。(『人事興信録 4版』)
そのころ内務省嘱託となって、「専ら、感化救済事業の調査に従事」しました。(『読売新聞』明治43年(1910)12月9日付朝刊「旧藩と新人物」)
さらに、大正4年(1915)ころに東京から五島へ移住したのでした。(『華族名簿 大正5年3月31日調』)
長崎県南松浦郡福江村福江郷15番地の盛光の養祖父・五島盛成が作った隠殿屋敷に移ったのです。
【平成4年と令和1年の空中写真を比べると、みごとに町が一つ消えているのがわかりますね。】
現場再訪
休憩して落ち着きを取り戻しましたが、なんとも割り切れない気分でしたので、もう一度工事現場に戻ることに。
巨大な工事現場は中の様子がわからないので、思い切って入り口のガードマンさんに聞いてみました。
「落合坂という名の坂道があったはずですが、どこだかわかりますか?」
なにせ大きな工事現場ですから、ガードマンさんの数も多く、訪ねた方からみなさんへ伝言してくださったにもかかわらず、誰もわからない様子。
口々にわからないことを謝ってくださるので、こちらが逆に恐縮していると、ガードマンさんのなかに訛りのある方がおられました。
それを耳にして、私はふと思い出したのです。
「大分から上京した野依秀市は、五島子爵家邸宅の門番をしていたのではなかったっけ?」
この考えが頭をよぎると、いてもたってもいられなくなった私は、ガードマンさんたちにお礼を言って、外苑東通りを引き返して六本木駅から早々に帰宅しました。
そして、野依秀市の経歴をチェックしてみると、たしかに明治36年(1903)に五島子爵家の東京屋敷で門番をしていたのです。
そこで次回は、この野依秀市についてみることにしましょう。
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