前回みたように、文禄3年(1594)に陣中で純玄が病没すると、玄雅が跡を継ぎました。
今回は、慶長の役での五島玄雅率いる五島軍をみていきましょう。
五島玄雅(はるまさ・1548~1612)
玄雅は宇久氏第18代純定の三男とされていますが、長男であったものの母の家柄が低かったとする説もあります。
兄の純尭が病弱であったため、あるいは純尭の没時に嫡男・純玄がまだ幼少であったために、自ら領主になろうと図って失敗し、長崎に追放されて、島津義久の斡旋により五島に帰ったのは前に見たところです。(第9回「五島ルイスの時代」参照)
小西行長の斡旋
家督相続に当たっては、小西行長が五島盛重の子・盛長の嫡男・盛利を養嗣子とすることを条件としたため、これを承諾しました。
しかし、実子がいるのにもかかわらず養嗣子を迎える措置が、のちに大事件を巻き起こすことになるのですから、不思議なものです。
いわばピンチヒッター的存在だったためか、『寛政重修諸家譜』などには玄雅が家督を継いだ記載がなく、次代の盛利を純玄の子として記しています。
また、秀吉が天正14年(1586)12月に豊臣姓を賜るとともに関白に就任した折には、祝賀に京へ派遣されたのは前に見たところです。(『三百藩藩主人名辞典』)(第11回「秀吉の九州征伐」参照)
こうしてみると、玄雅はこのころから五島家の筆頭家老にあたる地位にあったのでしょう。
慶長の役
文禄の役で多大な犠牲を払った五島家でしたが、秀吉からふたたび朝鮮出兵の命が下ると文禄の役の時と同様に、目いっぱいの兵力をそろえて、第二軍・小西行長の麾下で出兵します。(『日本戦史』)
慶長2年(1597)7月の巨済島海戦(漆川梁海戦)、さらには同年8月の南原城攻撃に小西行長麾下で五島玄雅は全軍を率いて参戦したのでした。(『日本戦史』)
慶長2年(1597)12月の蔚山城攻防戦では水軍として参戦し、功をあげています。(『全大名家事典』『三百藩藩主人名事典』)
そして翌慶長3年(1598)1月17日にはこの功を賞して秀吉から小袖一、道服一を下賜されるとともに、豊臣姓を許されるという一外様小藩にはありえないくらいの破格の恩賞が与えられました。
ようやく五島氏が認められたと思いきや、戦いはまだまだ続きます。
順天城の戦い
小西行長指揮ものと、松浦鎮信、有馬晴信、大村喜前とともに、五島玄雅は日本勢が突貫工事で作り上げた順天城の籠城戦に参加します。
慶長3年(1598)9月攻め寄せた明・朝鮮連合軍は5万を超える大軍で、参戦した朝鮮水軍の指揮は李舜臣がとっていました。
1か月余りにわたる水陸からの攻撃に耐え抜いて小西軍は順天城を守り切ります。
しかし、そのさなかに豊臣秀吉が死去し、秀吉の死を秘して明・朝鮮と講和して諸郡を帰国させて戦争を終結させる方針が五大老らによって決められたのです。(『日本戦史』)
露梁海戦
講和撤兵の方針に従って小西行長軍も和議を締結して撤退に入りましたが、朝鮮水軍を率いる李舜臣がこれに激しく反対して小西軍の撤退を実力阻止に出たから大変です。
孤立した小西軍を救援すべく島津義弘・立花宗茂・小早川秀秋・寺沢広高らが水軍を結集して順天城に向かいました。
これを李舜臣らが待ち伏せして起こったのが、名高き露梁海戦です。
慶長3年(1598)11月におこったこの海戦は、名将・李舜臣が討ち死するほどの激戦となりましたが、みごと小西軍は無傷で巨州島への脱出に成功し、島津らの軍に合流して撤退、12月には全軍が博多に帰還したのです。(以上『日本戦史』『岩波講座』)
こうしてようやく、五島玄雅率いる五島勢もようやく帰国することができました。
今回見たように、二度にわたった朝鮮出兵も、ここに終わりを告げたのです。
ところが今度は、天下分け目の大合戦がすぐそこに迫っていました。
次回は、五島家の関ケ原をみてみましょう。
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