前回は、新宮水野家の歴史をみてきました。
ところで、付家老とはどういったものだったのでしょうか?
そこで今回は、新宮水野家を職務や制度の面からみてみましょう。
付家老・新宮水野家
水野重央は、紀州徳川家の付家老として3万5,000石を領し、軍事編成においても自分の家臣のみで備えをつくりました。
そして、熊野地方で独立した小経済圏を持つ新宮に居城をかまえ、その周辺地を所領としていたのです。
この重央の知行高は、元和6年(1620)の知行状によると、新宮与力給5,300石を含めて3万5,000石となっています。
この新宮与力の多くは、重央が頼宣の家臣として水戸に移ったときに付けられた家臣だったので、本藩に帰属するとはいえ、その帰属意識は強くなかったようです。
水野家の代々は江戸にいて、江戸紀州屋敷を統括したために、新宮へは水野家の家老が入って領内の統治を任されていたのです。
紀州藩付家老
水野家は江戸と和歌山に自身の屋敷をもち、独自の家臣も抱えていました。
とはいえ、万石以上の所領を持つといっても、あくまでも大名の家臣でしたので、参勤交代もせず、大名の列に並ぶこともありません。
水野家のような付家老は家康の命令で御三家に付けられたもので、尾張の成瀬氏、竹腰氏と、水戸の中山氏、そして紀州の安藤氏と水野氏のあわせて五家がありました。
付家老という制度自体は、各地の藩と支藩の間などにもみられたものですが、御三家の付家老はいずれも大名クラスの所領を持つ点で特異といってよいでしょう。
安藤直次
ここで水野重央とともに紀州徳川家の付家老に任じられた安藤直次についても見ておきましょう。
徳川家の譜代家臣安藤家に生まれた直次は、元亀元年(1570)の姉川の合戦をてはじめに、長篠の戦い、小牧・長久手の戦い、関ケ原の戦いと、徳川家の重要な戦にほとんどすべて参加しています。
とくに、天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは秀吉側の将・池田恒興と森長可を討ち取る武功をあげました。
また、江戸幕府誕生時には、本田直純や成瀬正成らとともに、側近として徳川家康を支えたのです。
このように、直次は家康からの絶大な信頼があったからこそ、徳川将軍家を支える重要な役目を担う御三家の一つ、紀州徳川家の付家老とされたのです。
そして、安藤直次と水野重央という実直な二人を付家老としたことに、家康の御三家にかける並々ならぬ期待が感じられるのではないでしょうか。
こうして田辺の安藤家と新宮の水野家は、家康の期待に応えるように、ともに付家老として紀州徳川家を支え続けることになりました。
新宮領
じつは、水野家の新宮領は、その石高が紀州藩の総石高の中に含まれていますので、公的には支藩とはいえません。
しかし、田畑・山林・竹木など、すべての在中の仕置は、水野家が独自に支配したのです。
また、知行高の地詰を自由に行い、その結果生じた増高や新田検地による年貢を自分のものとすることができました。
水野家は、近世後期になると大型廻船を建造して家所有の手船化し、熊野地方の材木や木炭を江戸へと運ぶことなど、紀州本藩から独立して独自の経済政策を進めていきます。
こうしてみると、付家老として陪臣にあっても、経済的には独立した存在だったとみてよいでしょう。
ここまで新宮水野と紀州藩の関係をみてきました。
次回では、新宮の町についてみていきましょう。
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