前回みたように、嘉永5年の政変によって、水野忠央はついに和歌山藩政を掌握しました。
そこで今回は、忠央がとった政策を見てみましょう。
忠央の専横
幼少の藩主慶福を要した忠央は、和歌山藩政を掌握したのは前回みたところです。
藩の実権を握った忠央と安藤直裕は、まず嘉永6年(1853)12月に海防強化費ねん出を理由に、本藩に対して上知、つまり本藩の支配とされた元の領地の返還を申し出ます。
こうして、水野家には8,497石余、安藤家には5,171石余が返還されたのです。
さらに、長年の懸案だった新宮与力と田辺与力の帰属を、本藩からそれぞれ自家の家臣団に組み入れることを画策しました。
田辺では激しい抵抗があったものの、新宮ではすんなりと成功して、与力が家臣となったのです。
こうして上知の返還と与力帰属の問題を解決すると、水野・安藤両家はその野望をあらわにしていきます。
治宝亡きあと和歌山藩の実権を握った両家は、専制体制を敷きつつも和歌山藩からの自立を目論んでいたのです。
すなわち、石高や由緒、家柄から、大名並みの扱いを受けたといっても、あくまでも付家老は陪臣にすぎず、あいまいな身分から様々な悲哀を味わってきたのでした。
そこで忠央は、奥熊野一円を支配して、領域支配を強化しようと考えたのです。
付替え画策
水野家の所領は多くが新宮周辺に固まっていましたが、有田郡と日高郡に飛び地がありました。(第2回「新宮ってどんなところ?」参照)
そこで忠央は、この飛び地と本藩のもつ奥熊野の所領を交換しようと画策します。
これによって、熊野(新宮)川の水系を支配することができて、炭や木材といった山の産物を独占し、より大きな利益が得られると見込んだのでした。
さらに、この政策が実現すると、奥熊野の一円支配が確立することから、目指す自立に大きく近づくといえるでしょう。
付替え一揆勃発
しかし、本藩領となる飛び地では何ら抵抗がないにもかかわらず、新宮領に組み込まれる本藩領の農民たちが猛反発したのです。
安政2年(1855)4月、付替えが正式に発表されると、北山組4ヶ村、入鹿組10ヶ村、本宮組12ヶ村、木本組1ヶ村の4組27ヶ村の農民が一斉に反対の声を上げたのです。
これらの村々は、生業育成と資源保護のために、本藩の御仕入方と一体となって暮らしを立ててきたのですが、手厚い保護が得られなくなることを恐れて立ち上がったといわれています。
これに対して忠央は、まず役人を派遣して説得を試みますが、これがまったくの失敗に終わります。
続けて8月で廃止するとしていた本宮御仕入方を存続せざるを得ない状況となってしまいました。
そしてついに、10月には付替えの延期を発表するまでに追い込まれます。
それでも忠央はあきらめず、安政3年(1856)3月には反対運動の首謀者を和歌山に召喚したうえに、入牢を申し付けますが、火に油を注ぐことになってしまいました。
さらに安政4年(1857)閏5月には江戸在勤の吉田正大夫を現地に派遣して再度の説得にあたりましたが、これも完全に失敗に終わります。
ついに万策尽きた忠央は、付替えの据え置きを約束してようやく事態は終息したのです。
文武場
付替えは、どうみても忠央の都合をごり押ししたものですから、専横のそしりは免れません。
しかしいっぽうで忠央は、和歌山藩の赤坂藩邸に文武場を設けて藩士の資質向上に努めています。
同時に、自邸では洋式調練を行うなど、西洋の兵制にも強い関心を寄せていたのです。(第63回「新宮水野家越中島中屋敷」参照)
ここで洋式調練を行って一部とはいえ洋式兵制を取り入れたことが、のちのち和歌山藩の評価を大きく引き上げることになります。
今回は、和歌山藩政を掌握した忠央が行った政策の光と影をみてきました。
次回は、幕政にまで介入した忠央の転機となった大事件、桜田門外の変の頃をみてみましょう。
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