元祖「ハイカラさん」・世界のプリマドンナ三浦環の恋

三浦環が亡くなった日

5月26日は、昭和21年(1946)に日本人最初の国際オペラ歌手の三浦環(みうら たまき)が亡くなった日です。

そこで環の歩みを振り返り、現代へのメッセージをみましょう。

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【若いころの三浦環(出典:近代日本人の肖像)】

デビューまで

環は明治17年(1884)2月22日に東京府芝区今入町、現在の港区虎ノ門1丁目に父・柴田孟甫と母・登波の一人娘として生まれました。

柴田家は、父の孟甫は日本で最初の公証人で、裕福な家庭だったようです。

環は東京女学館で声楽の素質を認められたことから、反対する父を説得して明治33年(1900)東京音楽学校に入学、かわりに父に従って軍医の藤井善一と内祝言をあげました。

そして当時まだ珍しかった自転車で通学し、「自転車美人」と評判になります。

声学を幸田延、アウグスト・ユンケルに学びますが、環自身も研究して無理のない発生方法を身に付けたのです。

そして明治36年(1903)環20歳の夏、東京帝国大学の学生有志らが組織する歌劇研究会が主催した日本最初のオペラ公演「オフィーリアとエウリディーチェ」に参加し、主役のエウリディーチェ(百合姫)を歌い、オペラ歌手として認められました。

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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)】
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【柴田環(のちの三浦環) 柴田環(三浦環)(『ニコニコ写真帖 第1輯』ニコニコ俱楽部、大正元年 国立国会図書館デジタルコレクション )より)】

スターへの道

明治37年に卒業するとともに研究科に進んで研究をつづけながら授業補助を命じられて務めるとともに、藤井と正式に結婚しました。

明治40年(1907)6月には異例の若さで東京音楽学校助教授に就任するものの、明治42年(1909)3月には協議離婚しますが、新聞報道などで非難が高まって、9月には辞職に追い込まれました。

その後、明治44年(1911)に帝国劇場開幕にあたって、声楽教師に招かれて音楽界に復帰、新設された歌劇部で女子部員の声楽指導を行います。

ヴェルクマイスター『胡蝶の舞』(明治44年10月)、ユンケル『熊野』(明治45年2月)などの新作に主演して帝劇で目覚ましい活躍の結果、絶大な人気を得るまでになりました。

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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)「蝶々夫人」公演時のものと思われます。】
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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)】

国際的プリマドンナへ

大正2年(1912)9月に東京帝国大学医学部助手三浦政太郎と結婚し、大正3年(1914)5月、夫とともにドイツへ留学するものの、第一次世界大戦が勃発してロンドンに赴きました。

そこで世界的指揮者のヘンリー・ウッド卿と、イタリアのマルコニー侯爵夫人と出会い、日夜歌と踊りの振付に取り組みます。

そして大戦中の大正3年(1914)10月にロイヤル・アルバート・ホールの演奏会で海外初舞台を踏んだのを手はじめに、舞台に出演を重ねるにつれて、環の歌唱は高く評価されていきました。

そしてついに、大正4年(1916)5月31日、ロンドンで「蝶々夫人」を演じ大成功をおさめ、これを機に活動の舞台を欧米に移します。

それ以来、国際的プリマドンナとして世界の舞台に活躍し、欧米各地で2,000回も蝶々夫人を歌ったのです。

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【ニューヨーク・アメリカ女流音楽家招待会(『幕末明治大正回顧八十年史 第20輯』東京文化協会編集・発行、1937 国立国会図書館デジタルコレクション)より)画面中央に座っている着物の女性が三浦環です。】

帰国

昭和10年(1935)11月に帰国すると、翌年日本でも公演を開き、以後は後進の育成に努めます。

昭和19年(1944)からは山中湖畔に疎開、昭和20年(1945)2月に最後のソロ・リサイタルを日比谷公会堂で開き、昭和21年(1946)に放送とレコード録音をしたのち、5月26日に死去、享年62歳でした。

歌うことは万人を幸福にすることだという信念を持ち続けた生涯だったといいます。

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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)】
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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)】
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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)】

自転車美人の前向き人生

華やかな環の生涯で、私が注目するのは「自転車美人」と評判になったころ。

当時はまだ日本に自転車が5万6千台しかなく、若い女性がはかま姿で英国製の赤い自転車に乗り、颯爽と東京の街を走る姿は大きな話題となりました。

「自転車美人」として新聞に載り、小杉天外の小説『魔風恋風』のヒロインのモデルにもなって、社会現象を引き起こしたのです。

そんな環を一目見ようと、上野広小路界隈では男子学生たちが待ち伏せしていたそうですが、その中には当時画学生だった藤島武二もいたそうです。

また、東京音楽学校の助教授になったころは、教え子の山田耕作まで道に寝そべって通せんぼする有様で、自転車が転んで環が精養軒の脇の溝に落ちるのをみて手をたたいて喜んだというからあきれてしまいます。

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【山田耕作(『幕末明治大正回顧八十年史 第20輯』東京文化協会編集・発行、1937 国立国会図書館デジタルコレクション)より)】

こうして環が東京音楽学校で働き、人気となったのを嫉妬した藤井は仙台転任を機に離婚。

ところが、藤井は環に未練たらたらで、翌年には環を待合に呼び出したのです。

これを報知新聞記者・千葉秀甫がスクープ、一大スキャンダルに発展すると、「歌か家庭か」と仕事を優先する環への非難も高まって、一気に社会問題化してしまいました。

こうして環は東京音楽学校教授を辞任することになるのですが、その後の活躍は先に見たとおりです。

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【輪友同行(自転車デート)(『自転車術:一名 輪術』渡辺修二郎(少年園、明治29年)国立国会図書館デジタルコレクション)より)「自転車美人」環が東京を駆け抜けていた頃は、女生徒のサイクリングが男性たちの夢でした。このイラストも、どこか環に似ています。】

ところが、千葉のスクープは、思わぬ置き土産を残しました。

なんと、逢引の相手を藤井ではなく、東京帝国大学医学部助手の三浦政太郎と間違えて派手な記事に仕立てたのです。

大スキャンダルに発展すると、狼狽して逃げ腰となった藤井とは対照的に、政太郎はこの機会を利用して環に正式に結婚を申し込みました。

そしてなんと、この政太郎は「自転車美人」環の熱狂的ファンだったのです。

環のファンであった政太郎が、環の活躍を支えていったのはもちろんのこと、スキャンダルを報じられてから続いた環への強い反発にも逃げることはありません。

自分の好きなことを仕事としてキャリアを積んで世界的な名声を獲得し、さらに自分を支えてくれる男性と結婚と、現代の女性からみても、環の人生は理想的といえるのではないでしょうか。

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【三浦環(出典:近代日本人の肖像)】

(この文章は、『あの女性がいた東京の街』川口明子(1997、芙容書房出版)および『国史大辞典』『明治時代史大辞典』『日本女性人名事典』の関連項目を参考に執筆しました。)

きのう(5月25日

明日(5月27日

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