前回見たように、勝山藩は早くも勃発した財政問題を解決するのに10%以上の大増税を課したうえに、さらなる増税を行って乗り切ろうとしました。
そこで今回は、相次ぐ増税に対して領民たちが行った元禄一揆についてみてみましょう。
元禄十年一揆の勃発
前回みたように、勝山藩は年貢率を10%以上引き上げる大増税を行ったうえに、さらに検地をおこなってさらなる年貢増収を計画します。
この政策によって、領民は突如として大いに苦しめられることになりました。
さらにタイミングの悪いことに、元禄8年(1695)には大暴風雨、翌9年(1696)には凶作に見舞われて、ただでさえ領民たちの暮らしは厳しさを募らせていたのです。
これに対して、元禄10年(1697)春、ついに領民たちは江戸在勤中の藩主への越訴を決意します。
その内容は、年貢率の軽減、年貢賦課の方法改善、御用金・御用米の返済、先売金や米駄賃の廃止などをの要求でした。
一揆大成功
藩にこれが伝わったのが5月と完全に後手を踏んだうえに、一部の領民たちの領外逃散が行われてしまいましたから、藩は大慌てとなったのはいうまでもありません。
もしこの騒動が幕府に知れると、藩御取り潰しにもつながりかねない一大事。
そこで、江戸では藩主貞信が直接願書を披見したうえで、ことを穏便にすますために、領民側の訴えを認めるよりほかにはありませんでした。
そこで6月に藩主が帰国して協議を重ねた結果、7月には年貢率の軽減を除く要求の大半を受け入れることとしたのです。
しかも、一揆関係者の処分は一名たりともないという領民側の完勝といってよい内容でした。
藩としては、江戸越訴の禁止を厳達するとともに、今後一切このようなことはしないという請書を全勝山領農村の庄屋・長百姓に提出させることで、一応の面目を保つことにしたのです。
あくまでも事件の原因は、役人たちが藩主に無断で米金を借用するという「不届きなこと」にあるとして、藩主や藩全体に責任が及ぶのを避けたわけです。
一揆成功の要因
ところで、どうしてこの一揆は一名の処分者を出さずに大きな成果を出したのでしょうか。
まず、村役人層の主導により、組織的かつ計画的に遂行されたことが挙げられます。
さらにはこれが村方にとどまらず町方までもが参加したこと、逃散や越訴のように合法的手段が採られたことが成功の秘訣だったといえるでしょう。
元禄一揆の影響
こうして勝山藩は小笠原家入封そうそうに痛烈な失敗を経験することになりました。
ところが、事件の影響はこれにとどまらなかったのです。
元禄12年(1699)には隣の大野藩でも同じような年貢減免などを江戸越訴が決行されるなど、周囲にまで広がったのです。
元禄一揆の遺産
また、元禄一揆はその後の藩政に計り知れない影響を残しました。
一揆を受けて取り決めた年貢納入方法や年貢率は、幕末まで変わることなく維持されることになったのです。
といっても、村ごとに決められた年貢率は、村によっては負担が重すぎて村の維持が困難な事例もみられ、決して軽いものではありません。
しかし、江戸時代を通じて勝山藩の人口が微増していることからみて、年貢は何とか領民が生活を維持していけるぎりぎりの水準とみてよいでしょう。
ですので、ひとたび天災が起こると破綻をきたすのはいうまでもありません。
続発する一揆
いっぽう、藩財政は危機的状況が続きますので、御預金や借上金の賦課や夫役をたびたび求めることになります。
さらに、なんとか増収すべく、さまざまな手段を探ることになりますので、ここでも領民とぶつからざるをえません。
こうした背景に加えて、勝山の山深い地勢は災害が多発することもあって、天明6年(1786)や天保3年(1832)の打毀し、寛政5年(1793)の愁訴、明和8年(1771)の一揆など、百姓一揆が頻繁に発生することになったのです。
こうした状況は、小笠原家を改易にまで追い込むことはなかったものの、幕末に近づくにつれて領内は疲弊していくのでした。
今回は、勝山藩の大増税にたいして領民が行った元禄一揆をみてきました。
領民の統制のとれた行動の結果、完全勝利に近い成果をあげたのです。
しかし、勝山藩の財政状況がひっ迫している状況は変わりません。
そこで次回は、再び増税を目指した藩に対して領民が起こした明和一揆をみてみましょう。
《今回の記事は、『福井県史』『物語藩史』『日本地名大事典』『国史大辞典』『福井県の歴史』に基づいて執筆しました。》
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